「なめとこ山の熊」考 − 小十郎は誰のために笑ったのか − 花 山 聡 一 なめとこ山の熊のことならおもしろい。(1)このように始まる小十郎と熊との物語は、「おもしろい」という書き出しにもかかわらず、まったくかなしい物語です。それが何故「おもしろい」と語られ始めたのか。このことについて、『鑑賞日本現代文学13 宮沢賢治』(2)では、 「おもしろい」はずのこの物語は、かぎりなく悲しい。哀切をきわめる。徹底的な悲劇である。小十郎は救われない。もし小十郎を救うものがあるとしたら、それは彼の死であり、この物語の崇高なまでの悲壮美であるだろう。そういう「おもしろさ」ではある。と言います。「崇高なまでの悲壮美」がはたして「おもしろさ」と言えるか。あるいは「崇高なまでの悲壮美」を作者が何故「おもしろい」と表現したのかがわかりません。これでは、はぐらかされたようなものです。 続橋達雄氏(3)は、羅須地人協会活動の体験を経た後の作品(4)であることに着目し、十年ほど前の一九一八年の土性調査の際に鉛温泉(5)から出した一九一八年四月十八日付の工藤(佐々木)又治あて封書(書簡〔54〕)中の、 寒サウナ話ヲスルナラバ〔私ハ毎〕日摂氏〇度の渓水ニ腰 浸ッテヰルノデス。猿ノ足痕ヤ熊ノ足痕ニモ度々御目ニ〔カカリ〕マス。実ハ私モピストルガホシイトモ思ヒマシタ。ケレドモ熊トテモ私ガ創ッタノデスカラソンナニ〔意地〕悪ク骨マデ喰フ様ナコトハシマスマイ。という表現と、「〔或る農学生の日誌〕」(6)、詩「金策」下書稿、「雪わたり」を視野に入れ、 北海道の熊から鉛温泉での土性調査に思いをはせ、その時の〈熊トテモ私ガ創ツタ〉想像世界の遊びのたのしさを思い出したのではなかったか。/羅須地人協会活動での肥料設計問題にのめりこんでいき、詩「金策」に象徴されるような苦悩から解放されようとねがった時、右のような連想があったと仮定しよう。/〈私ガ創ツタ〉という〈なめとこ山の熊のことならおもしろい〉ことは自然であり、母子熊のイメージや殺し殺される間柄なのに信じあい愛しあっている熊と小十郎の関係も、「雪わたり」などのあの清澄で互いに信頼しあっている世界につながるものである。と言っています。つまり、羅須地人協会での活動において苦悩の現実を味わった宮沢賢治ゆえに、信頼を願望する心理が想像世界の創作をめざし、「おもしろい」という表現を導きだした、ということになるでしょう。 また、中地文氏(7)は「おもしろい」ということの意味を、次のように読み解いています。 《なめとこ山の熊のことならおもしろい》と語り始められる『なめとこ山の熊』の物語のなかで最も《おもしろい》こと、すなわち興味深いことは、熊たちが猟師淵沢小十郎を《すき》であったということではないだろうか。つまり「おもしろい」という表現を「興味深いこと」と読み換えることによって、その「興味深いこと」とは《熊は小十郎をすき》という設定であり、《すき》であるということを「宿命から逃れられない生物同士による〈許し〉」であり、「小十郎の〈罪〉に対する熊たちの〈許し〉」としてとらえようとしています。 これら「おもしろい」という表現と物語の“かなしみ”に何とか整合性を与えようとする試みに対して、西田良子氏(8)は創作過程(9)に着眼し、「全く書き下しのままの作品」であり、繰り返し推敲された他作品に比べ、「賢治自身にとっては(中略)関心のある作品ではなかった」とし、 冒頭の「おもしろい」という言葉は、ひきざくらの花を見て、雪だろうか霜だろうかと語り合っている母子熊のほほえましいイメージから喚起された言葉だったと思われる。/(中略)「なめとこ山の熊のことならおもしろい」で始まった話が、「全く気の毒」な小十郎の話となり、更に「しゃくにさわってたまらない」荒物屋の主人の話に移っていったことに気づいた賢治は、エピソードを入れ替えて、話題を題名通り「なめとこ山の熊」に戻そうとしたのである。しかし、この手直しは結局成功しなかった。テーマのズレは決定的であり、そのために最も感動的なラストシーンと、冒頭の印象的な言葉が、少しも呼応しないという、前述したような結果に終ったのである。と、この物語を未完成作品ととらえ、整合性を否定しているのです。確かに、二年後に約束を果たす熊の場面で常体の文体に敬体が混入していたり、時折顔をのぞかせる作者の自称語が「私」になったり「僕」になったりと、充分に練られていないと思われる部分があり、決定稿でないことは間違いないでしょう。 にもかかわらず、未完成ということで済ませるには、やはりためらいが残ります。約束を果たす熊の場面と荒物屋の場面を入れ替えるという作業ひとつとっても、全体の構成に対する作者の意志を感じる以上、この冒頭の表現を作品世界の中でどのようにとらえるかということ、あるいは何とか整合性を与えてみたいという誘惑は、おさえることができません。 「おもしろい」という表現への解釈の試みのなかで最も興味をひいたのは、沼田純子氏(10)の説です。書き起こしの表現として、『さいかち淵』の「さいかち淵なら、ほんたうにおもしろい。」、そして『オツベルと象』の「オツベルときたら大したもんだ。」の二つと合わせ、 これらの場合、作者は、「…のこと」、即ちドラマの発端から展開、結論に至るまでの悉くを既に承知していて、いわばドラマの終結したところに立って一々の場面とその展開とを読者に語って聞かせるという形になっている。そしてその視座に立っているからこそ抱きうる作者自身の私的個人的な思いを時として差しはさむことがある。すると、読者の方では、(正しくは作者は語り手と、読者は聞き手と称すべきであろうが)作者−語り手の眼に己れの眼を重ねたありようを貫き通すことができず、語り手が姿を表す都度、今関わっているこれは、現実的な趣きの強いものとして示されているけれども、あくまで架空の時空における“おはなし”であるに過ぎないのであることを思い起こさざるを得ず、そのことで前述したように話の悲惨さから救われる、という構造になっている。そのことを、ここでは“語りの枠組み”と称しているのであるが、冒頭の一句は、まずもってこの消息を告げていた。「ドラマの終結したところに立って」語り始めるという“語りの枠組み”を冒頭の表現に読み取ることについては賛同したいと思います。しかし、それが「その内容は余りに暗く、そのテーマは余りに重く、その衝撃の強さは読者を打ちのめしかねない。その精神的なショックから予め読者を救うべく、これがどこまでも架空の世界の“おはなし”なのだと強く印象づけておく機能を果たしている」とするのはどうでしょうか。冒頭の表現が、読み進めるにつれてその落差を実感させ、かなしみを増幅させることはあっても、軽減することにはならないような気がします。たとえこれが「架空の世界の“おはなし”」とわかっていたとしても、やはり小十郎の悲劇は、悲劇でしかないのです。 それでは、このかなしい物語には、どのような“語りの枠組み”が用意されているのでしょうか。 注 |