21 聖少女/お風呂の思い出
「いくぜ、シアン!」ランシーがマウンドの上に立って大声を張り上げた。白い虎の刺繍が入った帽子を目深にかぶり、そのひさしの下からは生き生きとした瞳が輝きを放っている。
バッターボックスに入ったシアンは、明らかに虚勢を感じさせる声で、
「お、おう」
と吃りながら返事をした。
ランシーが振りかぶり、第一球を投げた。風がうなりを上げて、恐ろしいスピードで白球がやってくる。ランシーは魔法使いではない。だが、その投げる球は、魔法使いの投げる球よりも速かった。
シアンは思わずバッターボックスから飛びすさっていた。
周囲の子供たちから、やじが飛んだ。キャッチャーの少年が笑いながら、
「シアン、逃げた方がいいよ」
と忠告する。
「え…」
シアンが判断に迷っているうちに、ランシーがすごい勢いで走ってきた。
「だーっ! ばかやろう!」
シアンはランシーに頭を叩かれた。
シアンは痛みに涙をいっぱいためて、再びバッターボックスに立った。第二球! シアンは恐ろしさに思わず目をつぶって、バットを思いっきり振った。空振り!
再び、ランシーが走ってきた。
「ばかやろう! お前にはど真ん中しか投げてないのに、なんで空振りばっかなんだ!」
再びシアンはランシーに頭を叩かれた。
「だいたい、お前はかまえがヘンなんだ。いいか…」ランシーはシアンの背後に立つと、彼の手を掴んで、バットを構えさせた。「脇をもっとしめろ。脚はもっと開く!」
「あ、あの…」
シアンが小さな声でいうと、ランシーが恐い顔でにらみつけた。
「何だ、シアン。いいたいことがあるなら、もっとはっきりいわねーと聞こえないぜ」
シアンはほんの少しだけ声を大きくした。
「ランシーって、なんか、いい匂いがするね」
ランシーは赤くなって怒鳴った。
「ばか! 変態! こんなときに何いってやがる!」
それから彼女はマウンドの方に向かって駆け出し、途中で振り返って叫んだ。
「いいか、シアン。今度空振りしたら、ただじゃおかねーぞ!」
シアンはか細い声で「う、うん」とうなずいた。
第三球! シアンは恐ろしさをがまんして、奥歯をぎゅっとかみしめた。ランシーにいわれた通りの構えで、バットを振る。シアンは魔法使いではなかった。ランシーの豪速球はシールドに守られていない、生のバットに当たって跳ね返った。
「おー、すげぇ」
ランシーは空高く飛んでいくボールを見上げて感心したようにいった。ボールはかなりの間、滞空した後、ホームベースの背後にある林の中へ落下した。ファール!
「やればできるじゃねーか」
ランシーは笑顔でシアンに駆け寄ろうとして立ち止まった。シアンがバットを放り出して、バッターボックスでうずくまっていた。
「どうした、シアン!」
シアンは涙目でいった。
「手がしびれた…」
「ばかやろう!」
シアンはまたまたランシーに頭を叩かれた。
フェイミンはグランド脇の芝生に腰を下ろし、日傘を差したままシアンたちの練習を見学していた。かたわらには弁当の入ったバスケット。足元にはシアンの持ってきた野球の入門書が開けられていた。彼女はシアンと共にここにやってきたときから、人々の注目を浴びていたが、これまで誰も話しかけようとするものはいなかった。彼女はシアンの付き人であり、他の子供に付き添ってやってきた従者たちのうちの一人というにすぎなかった。彼女のまわりにも、距離を置いて何人もの人々がめいめいに場所を取り、顔見知り同士で雑談を楽しんでいた。それらの中には守り役の老人から従者の青年までさまざまな人々がいたが、フェイミンのような子供は他にはいなかった。
しばらくすると、一人の少女がこちらに向かってやってきた。六歳くらいの小さな女の子で、チームのメンバーらしく体操服に帽子をかぶっていた。
「おねえちゃん、シアンくんのともだちだよね?」
フェイミンはやさしく微笑んだ。
「わたくしは、シアン様のメイドですわ」
少女はフェイミンの答えが聞こえなかったのか、少しはにかんだ笑みを浮かべると勝手に話し始めた。
「わたしねー、シーメイっていうの。ちゃんと字もかけるんだよ」
そういって彼女は地面にしゃがみこむと、持っていた木の棒で、自分の名前を書き始めた。フェイミンも近くにあった石ころを拾うと、同じように名前を書いた。
少女は顔を上げるとたずねた。
「おねえちゃんは、なんてかいたの?」
「フェイミン」彼女は発音を確かめるように、ゆっくりといった。「わたくしの名前です」
「ふーん。おねえちゃん、シアンくん、すき?」
「もちろんですわ。でも、シアン様、野球はとっても下手」フェイミンは断言した。「…ですわね」
「うん」とシーメイもうなずいた。「でも、シアンくん、やさしいからすき。あとねー、ランシーが、シアンくんはニゲアシだけははやいって、ほめてたよ」
フェイミンはくすりと笑った。
「人間、一つくらいは、取り柄があるものですわ」
老監督が昼の休憩時間がやってきたことを告げると、ランシーが走ってきて、伸ばした腕で、シアンの首筋に軽くタックルした。「いっしょに食おうぜ」
「うん」
二人はランシーのカバンを取りにベンチの方へといっしょに歩いていった。シアンは彼女の横顔をちらりと見て、歩きながらいった。
「あのね、ランシー」
「なんだ?」
ランシーが視線を向けると、シアンは赤くなってうつむいてしまった。
「…やっぱりいいや」
「はっきりしないやつだな」ランシーはシアンをにらみつけた。「いいたいことがあるなら、ちゃんといえ」
シアンは反射的に首をすくめると、立ち止まってあたりを見回した。それから彼はランシーに顔を近づけ、内緒話をするように小さな声でいった。
「…きのう、フェイミンとお風呂に入ったんだ」
ランシーの眉がゆっくりと上がった。
「…なんだと」
シアンの恥ずかしそうなようすが、しだいにびくびくしたものへと変化した。ランシーはまともにシアンの顔を見た。
「あいつと…フェイミンといっしょに風呂に入った?」
こくこくとシアンはうなずいた。
「お前、俺とは一度も風呂なんか入ったことなかったよな?」
こくこく。
「気にいらねぇ…」
ランシーはつぶやくと、フェイミンが待っている芝生の方へ、全速力で走り出した。
「おい、フェイミン!」
ランシーが肩で息をしながら怒鳴ると、フェイミンはまぶしそうに目を細め、ちょっと笑ってから答えた。
「まあ、なんでしょうか?」
「お前、シアンといっしょに風呂に入ったそうだな!」
「お背中を流しただけですわ」
それからフェイミンは何かに気づいたように、突然くすくすと笑い始めた。
「何がおかしい!」
フェイミンは人差し指を立てると、あやすようにいった。
「分かりましたわ、ランシー様」
「何だ?」
「そんなにシアン様とお風呂に入りたいのなら、初めから、そうおっしゃればいいのに。それじゃ、今日にでもお風呂に入りにいらしてください。わたくし、ランシー様のお背中も流してあげますわ」
ランシーは突然の成り行きに、呆然としてしばらくの間その場に突っ立っていたが、やがてシアンのところへ走っていって、彼の背中を何度も思い切り叩いた。痛がるシアンを無視して、ランシーはにやりと笑った。
「おい、シアン。今日はお前んとこに、風呂に入りにいくからな。待ってろよ!」
メイドたちに服を脱がせてもらうと、ランシーは浴場へと駆けていき、お湯の中へとざぶりと飛び込んだ。ぱっと湯気が立ち上る中に、フェイミンに背中を押されるようにしてシアンが入ってきた。彼が恥ずかしそうに首までお湯の中につかると、ランシーはにやにやと笑って、彼の顔を見た。「なに?」
シアンが赤くなってたずねると、彼女は屈託なくいった。
「いや、男はああなってるんだと思ってさ」
それから彼女はフェイミンの方を向き、「な?」と同意を求めた。フェイミンは無邪気に答えた。
「そうですわね。わたくし、初めて見たとき、自分と違っているなんて思ってもみなかったので驚いてしまいましたわ」
ランシーは断言した。「お前は馬鹿だ」
それから彼女はシアンが二人から離れたところに、こそこそと逃げていくのに気付いた。
「おい、シアン。何でそっちに行くんだ?」
「だって、二人ともエッチなんだもん」
「そうか?」
「そうだよ」
「だけど、お前だって、さっきからずっと俺の裸ばっか見てるじゃないか」
シアンはちょっとうろたえたように言った。「そ、そんなことないよ」
「そうかー?」
ランシーは何かいたずらを思い付いたように楽しそうな笑みを浮かべると、立ち上がってざぶざぶと彼の方へ近づいた。
「な、なんでこっちにくるの?」
「近くの方がよく見えるだろ?」
「こ、こなくていいよ」
ランシーは突然、シアンに襲い掛かった。「捕まえた!」
「わぁ、ランシーのエッチ!」
「あ、逃げやがったな、こいつ! フェイミン、逃がすな!」
フェイミンは浴槽の端に腰掛けて、くすくすと笑った。
「シアン様、がんばってくださいね」
シアンはしばらくの間、必死になってランシーから逃げ回っていたが、突然「わっ!」と悲鳴を上げると、追いかけてきたランシーにしがみついた。
「どこさわってんだ、この変態!」
シアンはランシーに頭を叩かれながらも、彼女にしがみついたまま、浴場のすみの方に視線を向けてふるえる声でいった。「あ、あれ!」
「なんだ?」
ランシーは怪訝な表情で、そっちの方をうかがった。なにか細長いものが、浴槽の縁にそって動いてきたかと思うと、ぽちゃりという音とともに、お湯の中に入ってきた。体を器用にくねらせて泳ぐ、カラフルな模様のある、細長い生き物だった。ランシーが女の子みたいな悲鳴をあげた。
フェイミンは機敏に立ち上がって、叫んだ。
「チンクオマダラヘビですわ!」
その叫びには恐怖もおびえも含まれてはいなかった。彼女の瞳に歓喜の輝きがともり、恋人に出会った少女のように頬に赤みがさした。
「シアン様、逃げないように見張っていてください!」
フェイミンは言い捨てると、裸のまま浴場を飛び出していった。
「そ、そんなこといったって…」
シアンは気持ちよさそうに遊泳しているヘビから後ずさるようにしながら、ふるえる声で途方に暮れたようにつぶやいた。それから彼は、自分にしがみついているランシーにいった。
「だ、だいじょうぶだよ、僕がついてるから」
それから彼はヘビと対決してやるぞとでもいうように、ヘビを睨み付けた。歯がカタカタ鳴りそうになるのを、必死で我慢する。だが、ヘビがこちらに向かってまっすぐ近づいてくるのを見ると、彼は思わず目をつぶって声をあげた。「ごめん、ランシー!」
その時、フェイミンが大きな昆虫網を持って戻ってきた。彼女はすくんだままの二人を無視して、網を振りかざした。
「くすぐったいですわ」フェイミンの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。シアンとランシーは恐る恐る目を開いて、「うっ」というような顔をした。二人を恐怖のどん底へ落としたヘビは、フェイミンに首根っこを押さえられてしまっていた。その細長い胴が、彼女の腕に巻きついてのたくっている。
ランシーが青い顔でいった。「お、おい、お前、何やってんだ…?」
「捕まえました」
フェイミンは嬉しそうにいった。
「それは見れば分かるって」
「とてもきれいでしょう。ほら」
フェイミンがヘビを持った手を差し出したので、二人は押されるようにして後ずさった。
「お前、変なやつだな」
「そうでしょうか?」
フェイミンは機嫌よく微笑んで、ヘビを持ってきた水槽の中に入れた。彼女は水槽の中でのたくっているヘビを覗き込んで、嬉しそうにいった。
「今日はランシー様と初めてお風呂に入った日ですから、ランシーと名付けてもいいでしょうか?」
ランシーは即座にいった。「絶対、だめだ!」
フェイミンはシェンシェンを手のひらに乗せると、大人びた表情で微笑んだ。夜もふけ始め、壁に吊るされた魔法灯がやさしい光で部屋をみたしている。ヒカリヒシガエルはその名の通りに、背中の模様を美しいオレンジ色に発光させていた。「ごめんなさい、シェンシェン」彼女はやさしくいった。「今夜はわたくし、シアン様のお部屋にお泊まりしますわ。さみしいでしょうけど我慢してくださいね」
シェンシェンはくるくると目玉を回すと、やがて部屋の反対側のすみにいるチンクオマダラヘビ…結局ランランと名付けた…に向かって鳴き声をあげた。
「だいじょうぶですよ。ランランの水槽はちゃんとふたをしておきましたからね。それではわたくし、そろそろ行ってきますわ。ちゃんといい子でお留守番しておいてくださいね」
彼女はシェンシェンの口をそっと自分の唇に触れさせると、水槽に戻して部屋を出ていった。明かりの消された暗い部屋の中で、シェンシェンの菱形の模様だけが蛍のように光っていた。
シアンの部屋に入っていくと、メイドのチャー・シアが顔を上げた。「シア様、交代しますわ」
フェイミンがいうと、シアは少し心配そうな顔で立ち上がった。
「だいじょうぶですか、フェイミン様。この分だと徹夜になりますよ。ぼっちゃまはあんまり体が丈夫でないから」
「だいじょうぶですわ。それに、わたくし、一度徹夜というのをやってみたかったんです」
「そうですか」シアは肩をすくめるといった。「それじゃ、一休みしたら夜食を持ってきます」
「はい、ありがとうございます」
シアは出ていこうとして、何か思い付いたように振り返った。
「そうだ、フェイミン様。治癒魔法はだめですよ。あれは病原体も活性化されちゃいますからね」
チャー・シアが出て行くと、フェイミンはベッドの脇の椅子に腰掛けて、ベッドに横たわっているシアンを見つめた。朝からの熱はまだ続いているようだった。フェイミンは彼の頭の上の濡れタオルを取ると、自分のおでこを押し付けた。それから持ってきたタライで搾り直したタオルを、再び彼の額に乗せた。
シアンはうなされているようだった。真っ赤な顔で何かから逃れるように身じろぎし、時々「ヘビが…」とか「ランシー…」などとうわごとをいっている。
「シアン様…」
フェイミンはうなされているシアンを見つめて少し頬を赤くすると、そっとつぶやいた。
「…よほど、ヘビが怖かったんですわね。あんなに可愛らしい方でしたのに」
彼女は突然、何か名案でも思い付いたように表情を明るくすると、エプロンを外してメイド服を脱ぎ始めた。そして下着だけになると、毛布を上げてシアンの隣にもぐりこんだ。
彼女は少し上半身を起こすと、シアンの苦しそうな寝顔をやさしく見つめていった。
「もう、だいじょうぶですわ、シアン様。わたくしが添い寝してあげますからね」
それからフェイミンは、シェンシェンにしたのと同じように、そっと唇をシアンの唇に触れさせると、くすくす笑った。
「おやすみなさい、シアン様」
翌朝、フェイミンはチェタンに呼ばれて彼の部屋へ赴いた。彼はすでに出発の準備を整え終わったところだった。「旦那様、もう出かけられるのですか?」
「ああ、そうだ」彼はメイドの一人に外套を羽織らせながらいった。「朝飯を一緒に取れなくてすまないな。日が沈むまでに駐屯地に到着したいんだ。それよりシアンの奴はどうだ?」
「もう、だいじょうぶですわ」フェイミンはにっこりと答えた。「熱はもう下がりました。今は、眠っていらっしゃいます」
「そうか」
彼は自分の格好をチェックすると、顎に手を当ててかたわらのメイドに向かってポーズを取ってみせた。
「どうかね、決まっているかな?」
「決まってらっしゃいます」
メイドは笑ってうなずいた。
「よし、それでは出かけるとしよう。フェイミン、よかったら門まで一緒に行こう」
チェタンはフェイミンの歩調に合わせるように、大股だがゆっくりとした足取りで歩きながら、彼女にたずねた。
「まだここに来ていくらもたたないのに、こんなことを聞くのはなんだが、ちょっとはここの暮らしにはなれたかね?」
「はい、旦那様」
「それで、シアンの奴は気に入ったかね?」
「はい。とてもおやさしい方です」
「やさしい方か…」チェタンは「ふむ」と眉を動かした。「そうかもしれん。やさしいのは女にもてる条件の一つではあるが、ああ弱くてはどうにもならん」
「弱いものはきたえることができます」
フェイミンの言葉にシアンは驚いたように立ち止まった。
「そう思うかね?」
「ランシー様に、シアン様をきたえてくれとおっしゃったのは旦那様でしょう?」
「もう、そんなことまで知っているのか。地獄耳だな」
「はい、少なくとも天国耳ではありませんわ」
「天国耳というのは、何のことか分からんが…」彼は苦笑した。「それで、シアンのことはどう思う? つまり、その、なんだ…奴のことは好きかね?」
「はい、大好きですわ」
「ほう」
チェタンはにやりと笑った。彼はさらにたずねた。
「どのくらい好きなのかな?」
「そうですわねえ」
フェイミンは少し考え込むように視線をそらしたが、すぐに彼を見上げて、嬉しそうに答えた。
「シェンシェンと同じくらい好きですわ」
22 聖少女/密室の二人
シアンはしだいに走る速さを落としていき、最後には歩きながらいった。「疲れたろう、アイリン?」
少女はほっぺたを真っ赤にし、肩で息をしながら健気に首をふった。
「ううん、そんなことないよ」
シアンは微笑んだ。
「脚の長さが違うからね。ついてくるだけでも立派なものさ」
「だって、わたし、シアン様の赤い貴婦人だもん」
「それとこれとは関係ないように思うけどなあ」
彼は朝もやに包まれた木々を見回した。公園の中の小道。ジョギングコースの中間地点だった。ここを抜ければ、あとは屋敷まで帰るだけだ。
「今日はだいぶ霧が出ているな」
彼がつぶやくようにいうと、アイリンが少し心配そうな顔でいった。
「天気わるいのかなあ」
「こういう日はきれいに晴れるものさ」
しばらく歩いていくと、アイリンが唐突にいった。
「ねえ、シアン様。フェイミンのこと好き?」
脈絡のない質問だったが、彼は驚かなかった。少なくとも、驚きが顔にあらわれるようなことはなかった。彼は子供の一見脈絡のない質問には慣れていた。
「もちろん、好きさ」
彼がよどみなくいうと、アイリンは何かいいかけ、それから困惑した表情を浮かべた。シアンは笑みがこぼれそうになるのをこらえた。彼が女性に対して、しばしばこの言葉を使うことを思い出して、それが実際にどういう意味なのかをはかりかねているのだろう。
アイリンは再びいった。
「えと、それじゃ、フェイミンとせっくすしたい?」
シアンは慌てて少女の口元を塞いだ。アイリンは少し身じろぎしただけでおとなしくなった。彼は手を離して、誰か聞いているものはなかったかとあたりを見回し、それから小さな声でいった。
「だめだよ、アイリン。こんなところでそんなことをいっちゃ」
「ごめんなさい」
「でも、どうしてそんなことを聞くんだい?」
「あのね。私、はじめてフェイミンを見たとき、フェイミンもシアン様の赤い貴婦人だと思ったの。だって、フェイミン、すごくきれいなんだもの。シアン様、きれいな女の人、好きでしょ?」
「それは、もちろんだけどね。でも…ええと…」彼は言葉を探した。「…そういうことをしたいかというと、ちょっと違うような気がするなあ」
「どうして?」
彼はアイリンから目をそらすと、ひとごとのように答えた。
「それはまあ、彼女がきれいすぎるからかもしれないな…」
屋敷に戻るころには、すでに霧は晴れ上がり、明るい陽光が照り付け始めていた。シアンは門番から今来たばかりだという手紙を受け取ると、歩きながら差出人を確かめた。彼は驚いたような嬉しそうな顔でいった。「父上からだ」
「旦那様?」とアイリン。
彼はうなずいた。「きっと無事に到着したという知らせだろう」
彼は朝食の準備をしているフェイミンの姿を見つけると、手紙をちらつかせていった。
「父上から手紙だ。一緒に読もう!」
書庫の中は日増しに暑くなる屋外にくらべると、うそのように涼しかった。普段、ここに足を踏み入れるものは、所有者であるチェタン以外にはほとんどいない。だが、今や数人のメイドたちが、入れ代わり立ち代わり次々と本を運び出していた。チェタンからの手紙に、書庫の本を虫干ししておけという指示があったからだ。シアンはチェタンの代理人として、この作業を監督していた。少なくとも形式的には。実際には、フェイミンがメイドたちを指揮し、彼自身はその手伝いをしているにすぎなかった。そして、アイリンも彼と一緒に本運びを手伝っていた。
彼は本棚の上の方から…彼の担当はメイドたちの手の届かない最も上の棚と決まっていた…本を下ろそうとして、手を止めた。彼は瞬きし、その背表紙に書かれた表題を読んだ。
「十四年度版科挙問題集…」
彼はその本を手に取ると、ぱらぱらとめくり始めた。メイドの一人が本を運びにきて、「シアン様、ちょっとどいてくださいませんか?」というと、彼は「うん」と自動的にうなずき、ちょっと脇にどいた。アイリンがやってきて「シアン様、何読んでるの?」とたずねると、彼は心ここにあらずといったようすで「ああ、ちょっとね」と曖昧に答えた。
彼はやがて、薄暗い本棚のそばから、明かり採りの窓のそばにある机に移動し、本格的に読み始めた。
第一の疑問は、これはいったい誰の本なのかということだった。十四年といえば、今から二十年ばかり前の話だった。ちょうど、チェタンが今のシアンくらいの歳のころである。だが、戦争ひとすじの百鬼将軍ともあろうものが、科挙に挑戦したりするだろうか?
もう一つの推理は、同じ十四年でも、もっと昔の十四年ではないかということだった。年数は皇帝の即位のたびに一から数え直すのだから、どの皇帝の十四年でもいいわけだった。その皇帝が十四年以上在位してさえいれば。
もっとも、その可能性はなさそうだった。このリー家は百鬼将軍リー・チェタンが創ったものなのだから、それ以前の誰かのものであるということは考えにくい。だとすれば、百鬼将軍リー・チェタンは、息子のシアンと同様に、一度は文官を目指したのだ!
それは当然だった。文官こそが人間と生まれたからには目指すべきものだった。帝国を動かしているのは文官だった。全能の皇帝と権力を分け合っているのは文官だった。帝国の豊かさを最も享受しているのは文官だった。真の貴族と呼ぶべきものは文官だった。
文官に比べれば、軍人などはその犬にすぎない。チェタンのような軍人貴族は成り上がり者、まがい物の貴族にすぎなかった。チェタンのような将軍…制度上はひとまとめに雑号将軍と呼ばれる…は、法的には帝国の閣僚である大臣たちと同じ位にあったが、決して同格の扱いをされることはなかった。
連綿と続いてきた帝国の慣習がそこにはあった。その格差は広がることはあっても、縮まることは決してなかった。貴族の牙城である学士院は、当の昔に武官の入学者を排除していたが、今や文官であっても二流以下の貴族の入学はますます難しくなりつつあった。目指すべきは、この学士院に子弟を送り込めるだけの、高位の文官になることだった。リー・チェタンは一度はそれを目指し、そして失敗したのだ。
シアンは人の気配に気付いて顔を上げた。
「シアン様、何を読んでいらっしゃるのですか?」
フェイミンがやさしく微笑んで、彼を見下ろしていた。彼は自分が急に、大人たちに隠れて遊んでいる子供にでもなったような気分に襲われ、あわてて弁解した。
「父上の参考書を見つけたんだ。君は信じられるかな。父上も私と同じように文官になろうとしたことがあったのさ」
「まあ、旦那様が?」
「うん」
「でも、旦那様だって、シアン様のお父様ですよ」フェイミンは分かったような、分からないようなことをいった。「きっと、似たもの親子なのですわ」
「そうかな…」
シアンは反論したい気持ちに駆られたが、それ以上はいわなかった。彼女のいうことだから、きっとそうなのだろう。
突然、バタンという音が響いて、シアンとフェイミンは反射的に、音のした方を振り向いた。彼は立ち上がると、そっちの方へ歩いていった。開いていたはずのドアがしまっていた。彼は付いてきたフェイミンを振り返っていった。
「鍵がかかっている」
彼は明かり採りの窓のそばに戻ってくると、床に腰を下ろして壁に背をあずけた。「閉じ込められたな」
彼はいった。出入口は一箇所しかなかったから、まったくその通りだった。
「シアン様、椅子にお座りになればいいじゃありませんか」
フェイミンがさっきまで彼が座っていた椅子の背に手をかけていった。彼は愛敬のある笑みを浮かべた。
「こういう時は女性に席をゆずるものさ」
彼女がいわれた通りに腰をかけると、彼は膝に手をかけて、つぶやくようにいった。
「きっとメイドたちのいたずらだな。彼女たちは私をからかうのが楽しいらしいから」そして彼は、ちらりとフェイミンを見上げた。普段から彼をからかうのを一番面白がっているのが、この少女だという確信が、彼にはあった。「まあ、すぐにアイリンが気付いて開けてくれるだろう」
「そう思われますか?」
彼はフェイミンがこちらをまっすぐ見ているのに気付いて、ぎくりとなった。彼女の言葉には、何か不吉なもの…もちろん、彼女にとって楽しくて、彼にとって不吉なもの…が隠されているようだった。
「どういう意味だい?」
「これは罠ですわ」
「罠とはおおげさだな」
シアンは軽く受け流そうとしたが、フェイミンがやっていることが気になった。彼女ははずしたエプロンをきれいに折りたたんで、机の上に置いた。だが、なぜここでエプロンをはずす必要があるのだろう?
彼はこわばった表情で立ち上がった。
「フェイミン、何をしている?」
だが、彼女は、彼の言葉を無視して作業に集中した。メイド服のボタンがひとつひとつ、手際よくはずされていった。彼女が立ち上がると、スカートがするりと美しい脚をすべり落ち、自由になった服がはらりと開いて胸元があらわになった。
彼女はスカートを手に持ったまま、シアンの方を見つめて微笑んだ。
「わたくしも罠の一部です」
少女の微笑みは微笑み以上のものを含んでいた。シアンの神経の一部が麻痺し、背中にしびれるような感覚が広がった。それは彼女がお気に入りの小さな動物たちといるときに、時々見せるあの表情だった。シアンは漠然と、ヘビににらまれたカエルの心境がどういうものであるか悟ったような気がした。
彼は表面的に冷静さを保ったままいった。
「どういうことだい?」
「彼女たちは、わたくしがシアン様の正妻になることを望んでいます」
「彼女たちというのは、我々を閉じ込めたメイドたちだな?」
「そうです」
話をする間にも、フェイミンは残された衣服を脱いでいく手を止めなかった。シアンは必死で頭を働かせることに集中しようとした。
「もしかすると、その中にはアイリンも入っているのかい?」
「もちろんですわ。わたくしがアイリン様のお許しなしで、こんなことをするはずがありませんもの」
「なるほど。では、助けはこないということだな?」
彼はいいながら、何からの助けだろうと思った。
「そうです」とフェイミン。
「それで、私の正妻になる為には、既成事実を作ればいいと考えたわけだな?」
彼女はちらりと彼を見て、「さあ、どうでしょう」と曖昧に微笑んだ。
彼はかまわずに自分の推理を押し進めた。
「…もし君が普通の貴族の娘だったら、この手は使えなかっただろう。単に大勢いる恋人が一人増えただけの話だからだ。だが、君は奴隷であって、奴隷法を当てにすることができる。奴隷法によれば既成事実ができた場合、結婚が推奨される。とりわけ君がそれを望んだ場合、そして相手が…」
彼は唐突に言葉を切った。フェイミンが丁度、脱いだ衣服をすべて、丁寧に折りたたみ終えたところだった。彼女はもはや一糸もまとわない姿になっていた。彼女の美しい姿態は、明かり採りの窓から差し込む光の中に浮かび上がり、薄暗い書庫の中で光の像のようにかがやいていた。
もちろん彼は、彼女が一枚一枚着ているものを脱いでいく間、目をそらすような礼儀知らずなまねはしなかった。だが今や、フェイミンの少し眠そうな…差し込んでくる光のためだろう。彼女は昔から強い日差しに弱かった…瞳が、彼の瞳をまっすぐ見つめていた。彼は目をそらそうとしてもできず、こわばった指で背後の壁をつかもうとしながら、じっと立っているほかなかった。
フェイミンの瞳には、普通の少女がこういう場合に浮かべるべき羞恥の色がほとんど見えなかった。彼女はその瞳に、自分の裸体によってシアンがどんな反応を見せるか早く知りたいとでもいうように、期待と好奇心の入り混じった光を浮かべていた。
「いかがですか?」
彼女は椅子の背に手をかけて、二人の間を隔てている机の縁をゆっくりと回り込んで近づいてきた。そのため、それまで隠されていた部分があらわになり、今や彼女の全身がシアンの視界に入ってきた。
「きれいだ」彼は半ば熱に浮かされたようにいった。
「お世辞でもうれしいですわ」
「お世辞なんかじゃない。事実だ」
「まあ」
フェイミンはうれしそうに微笑んだ。だが、シアンには、彼女が依然として彼の言葉を社交辞令の一種と受け取っていることが分かった。彼はなおもいった。
「君は私がこれまで見た女性の中でもっとも美しい。そのことはずっと前から知っていた。だが…」
だが…なんだ? 彼は必死で考えた。今、自分は自分の言葉を彼女に信じさせたいという欲求に駆られてしゃべっている。だが、そんなことをしてどうなる? 彼の理性が警報を発した。彼女が近づいてくるぞ!
「待て、フェイミン。話せば分かる」
「何が分かるのですか?」
彼女はやさしくいった。彼は自分が今にもいいくるめられるのではないかという焦りを感じた。何といっても彼女の微笑みには十年近くにわたって磨き上げられた説得力があるのだ。
だが、彼は抵抗をあきらめなかった。何としても逃げ切らなければならない。だが、それは一体なぜだ? 彼女は美人だ。なぜいけない? 彼の心はその理由を知っていた。だが、それを言葉にしなければ何の役にも立たないのだ。
「それは…つまり…」
今や彼女のほっそりとした腕が伸びて、あたたかい指が彼の両頬に触れた。彼女は彼の瞳をのぞき込んでいった。
「どんな気持ちです? ここには、わたくしたちだけしかいません。わたくしは、ごらんの通り無防備ですわ。わたくしを押し倒したくなりましたか?」
「いいや」彼は小さくかぶりを振った。「むしろ、君の足元にひれふして、君を崇め奉りたい気分…」
彼がいい終わると、少し背伸びしたフェイミンの唇が、彼の唇を塞いだ。彼は思わずうぶな少年のように固く目を閉じ、頬を赤らめた。彼女が唇を離すと、彼は少しだけ自信を取り戻した。何といってもキスは彼の得意分野であって、彼女の得意分野ではない。
「…今のが君のファーストキスかい?」
「いいえ。昔、シアン様が眠っているときに、したことがありますもの」
「ひどいな…」
彼は傷ついたふうもなくいった。だが、頬の赤みはそのままだった。彼ははっきりした口調でいった。
「君はメイドたちが、君を私の正妻にしたがっているといったね? だが、私は、君自身の気持ちについては、何も聞いていない」
「わたくしの気持ち?」
「そうだ!」彼は力説した。「君は彼女たちのいうがままに、私の妻などになりたいのか? 私は知っての通り女たらしだし、アイリンもいる。おまけに軍人なんかになったあかつきには、私が屋敷にいること自体、めずらしいことになるだろう」
だが、彼が話すにつれて、彼女の口元には笑みが浮かんだ。
「シアン様はご存じだと思っていましたわ」
「何を?」
「わたくしがあなたの婚約者だということをです」
シアンは一瞬黙り込んだが、やがてぽつりとたずねた。「父上が、そういったのか?」
「いいえ」フェイミンは少し首をかしげていった。「旦那様は言葉にしては何もおっしゃいませんでした」
「それでは、君の思いすごしかもしれない」
「考えてみればすぐ分かることですわ。旦那様がわたくしに命じたのは、シアン様のお世話をすることだけでした。でも、わたくしとシアン様は同じ歳です。そして、男と女でもあります」
「何がいいたいんだい?」彼には話の結末が完全に予測できた。
「シアン様は昔から女の子が好きな方でした。わたくしは昔からきれいな女の子でした。…ほら、何が起こるかは、旦那様でなくとも想像ができますわ」
「だが、何も起こらなかった…」シアンは視線を落としていった。「確かに私も、父上が君と私をくっつけたがっていると感じたことはある」彼は顔を上げた。「…君はまだ私の質問に答えていないぞ」
「わたくしの気持ちですか?」
「そうだ」
「わたくしの気持ちは簡単です。長い間、自分はシアン様の婚約者だと思っていました。ですから、いつでも心の準備はできていますわ」
「待って」彼は彼女の勝ち誇ったような微笑みを、なんとか打ち消そうとした。「君がいっているのは、単なる心構えだ。私が聞きたいのは、君が私に恋愛感情を持っているかということだ」
「恋愛感情…?」
シアンは、彼女の耳慣れない言葉を聞いたとでもいうような表情を見て、暗い気分になった。
「フェイミン、君は私に恋愛感情を持っているわけじゃないんだ。そうでなければ、私の前に、その姿で平気で立っていられるはずがない」
「でも、わたくしはシアン様が好きですわ」
「君の好きという言葉は、私が使っている好きという言葉とは意味がちがうんだ」
「そうでしょうか?」
彼女の疑わしそうな声に、彼は静かに答えた。
「君は私とシェンシェンと、どちらかを選べといわれたら、どちらを選ぶ?」
「それは…」
フェイミンの頬に初めて赤みが差した。彼は追い打ちをかけるようにいった。
「君は私とシェンシェンを同列に見ている。君にとって私は、ヒカリヒシガエル同様、飼って楽しい愛玩動物にすぎないのさ」
彼女はしばらくの間、日の当たった机の上を見つめていたが、やがて少しうるんだ瞳で、シアンを見つめた。
「シアン様のいう通りですわ」彼女はいった。「でも、わたくしがあなたを好きなことには変わりありません。シアン様のお世話をするのは、シェンシェンの世話をするのと同じくらい楽しい。今でもよく覚えています。子供のころのあなたは、シェンシェンの卵みたいにデリケートで、わたくしはあなたに夢中でした」
フェイミンは一歩踏み出すと、彼の手をそっと取った。彼の心臓が速い鼓動を打ち鳴らし始めた。一体どこで間違えた? あとひと息で彼女を説き伏せるところまでいったはずなのに。
彼女のうるんだ瞳がすぐそこまで来ていた。立ち昇る芳香が、徐々に彼の理性を侵食し始める。頬を染めた少女は、日頃とは違った感じがして、いっそう美しくシアンの瞳にうつった。
彼女はシアンの手を引き寄せると、そっと自分の乳房に押し当てた。なめらかな肌が手のひらに吸いつき、信じられないほどやわらかな感触を伝えた。彼はめまいに襲われたように、視界がありえない方向に傾くのを感じた。
次の瞬間、彼の手は、やわらかなふくらみをすべり落ちて、彼女の背中に回されていた。彼はフェイミンを抱きしめて、大きく肩で息をした。
「シアン様…?」
という彼女の怪訝そうな声も、ほとんど耳に入らなかった。しばらくして、気がつくと、フェイミンの手が、やさしく彼の頭を撫でていた。
「どうなさったのですか、シアン様? 遠慮することはないのですよ。こういう経験は初めてですけど、あなたのなさることなら、なんでも受け入れてさしあげますから」
彼はあえぐようにいった。「君は僕の気持ちを分かっていない」
フェイミンの手が止まった。
「わたくしがお嫌いなのですか?」
「そうじゃない」彼は抱きしめた腕に力を込めた。「僕は君を誰よりも愛している。だけど、それは恋愛感情じゃない。僕は君に恋しているわけじゃない。君が僕をシェンシェンの代わりに愛しているように、僕は君を母上の代わりとして愛しているんだ」
フェイミンが腕の中で身じろぎする感じが伝わった。シアンは今ここですべてを打ち明けなければならないという欲求に突き動かされて、熱に浮かされたように続けた。
「…初めて会ったときから、君は僕に何をした? 僕に付きまとって、あれをしろ、これはだめだ…僕に躾と礼儀作法を教えたのは君だ。僕に勉強を教えてくれたのは君だ。病気のとき看病してくれたのは君だ。君は僕にとってずっと母親代わりだった。僕は何年もの間、ずっと君が歳上の女の子だと信じていた。だから、いまさら君を普通の女の子として見ることはできない。僕にとって君は手を触れてはいけない存在…神聖にして犯すべからざる存在なんだ」
フェイミンはメイド服のボタンをはめながら、彼女が服を着るのをじっと見守っているシアンに微笑みかけた。彼が椅子に腰掛けたまま、リラックスしたようすで微笑み返すと、彼女はいった。「わたくし、少しほっとしたかもしれません」
「やっぱり嫌だったのかい?」
「もし、本当に、奥方様になったりしたら、あなたのお世話ができなくなってしまいますもの」それから彼女は、スカートを手に取っていった。「でも、初体験を逃したのは、少し残念でした」
「面目ない」シアンは少し顔を赤らめて、ばつが悪そうにいった。
すっかり衣服を整えると、フェイミンは「行きましょう、シアン様」といってドアの方へ歩いていった。
「どうするつもりだい?」
彼がたずねると、フェイミンはポケットの中に手を突っ込んだ。
「書庫の鍵は一つしかないというわけではありませんわ」
彼女は微笑んで、手に持った鍵をシアンに見せた。彼が肩をすくめてみせると、彼女は鍵を鍵穴に差し込んだ。だが、彼女は、そこでちょっと考え、シアンを振り返った。
「シアン様」
「なんだい?」
フェイミンの瞳にいたずらっぽい輝きが浮かんだのを見て、彼は少し不安になった。彼女はたずねた。
「もし、わたくしが、誰かと結婚することになったらどうなさいます?」
「それは…」彼は言葉につまった。
フェイミンはくすりと笑った。
「冗談ですわ。わたくしはあなたのお側を離れたりしません。せっかくここまでお育てしたんですもの。最後まで責任は持ちますわ。でも、シアン様」彼女は少し真面目な表情で、彼の瞳をじっと見つめていった。「忘れないでください。わたくしがあなたを愛しているということを」
23 士官学校/男装の麗人
アイリンは鯉の群がっている池の水面を見て、可愛い顔ににんまりとした笑みを浮かべた。彼女はそれから、丈の短いワンピースの裾をひるがえして、池の中ほどにかかっている橋へ駆け上った。彼女が再び餌を投げ込むと、磁石に引かれる砂鉄のように、鯉たちがあっちからこっちへと集まってくるのが見えた。「わぁ」
彼女は頬を紅潮させて感嘆の声を上げ、それから池の対岸にたたずんでいる青年に大きく手を振った。
餌がすべてなくなってしまうと、アイリンは橋を下りてシアンの方へ駆け寄った。
「シアン様、全部おわったよ」
「ありがとう」
彼はアイリンの頭を撫でていった。彼が屋敷の中に戻ろうと歩きかけると、アイリンは彼の服の端をちょっと引っ張って呼び止めた。
「シアン様、お話があるの」
「なんだい?」
彼がやさしく振り返ると、アイリンは少し躊躇したように、もじもじと幼い少女らしい華奢な脚をすりあわせた。
「えーとね、シアン様、この前、フェイミンとせっくすしたの?」
シアンは一瞬、めんくらった表情をしたが、すぐに気を取り直して聞き返した。
「フェイミンは何ていった?」
「フェイミンに聞いたら、秘密だって…」
「なるほど」彼はユーモアの色を瞳にたたえて、近くの石に腰を下ろした。「…実はうまくいかなかったのさ」
「えー!?」アイリンは驚きの声を上げると、彼の膝をつかんで乱暴に揺すった。「どうして? フェイミンのこと嫌いなの? フェイミンとっても美人なんだよ」
彼は突然アイリンを抱え上げると、自分の膝の上に座らせた。彼はおとなしくなったアイリンの瞳をのぞき込むようにしていった。
「彼女のことはもちろん好きさ。前にもいっただろう?」
「うん」
「でも、だからといって、そういうことをしたいってことにはならないのさ」
「どうして?」
不思議そうに聞き返すアイリンに、シアンは確信を込めた瞳で答えた。
「男と女の間には、セックス以外の何かがあるんだよ。例えば君は赤い貴婦人になる前、私のことをどう思っていた? 好きだった? それとも嫌いだったかな?」
「最初からずーっと好きだったよ」
「じゃあ、そのころ君は私とセックスしたいなんて考えていたかな?」
「えーと…」アイリンはずっと大昔のことでも思い出すかのように、しばらく難しい表情をしていたが、やがて怒られはしないかと少しびくびくしたようすで答えた。「あ、あの…私、ぜんぜんそんなこと考えてなかった…」
シアンは少し笑みを浮かべた。「それでいいのさ。君は私が好きだったが、そういうことをしたかったわけじゃない。それでも君は私が好きだった。ほら、君と私の間には何か別のものがあったってことが分かるだろう?」
「別のものって何?」
「そうだな…」シアンは首をひねった。「気持ちを言葉にするのは難しいな。友情…かな? それとも…」
アイリンは屋敷の方で待っているフェイミンに気付くと、シアンの膝を下りて彼女の方へと走っていった。シアンの視線はごく自然に、元気よく駆けていく少女の姿を追った。彼はつぶやくようにいった。「…恋ではないよな」
シアンは立ち上がって後を追おうとしたが、アイリンはすぐに戻ってきた。
「シアン様、手紙だって」
彼女が差し出した灰色の封筒を見て、シアンは表情を引き締めた。アイリンが彼の表情に敏感に反応して、不安げな顔をした。彼はそれが現実であることを確認するかのように、ゆっくりと差出人の名前を読んだ。
「兵部省からだ」
手紙の内容は開かなくても分かった。彼、リー・シアンの士官学校への入学手続きが完了したという通知以外には考えられなかった。それにしても一ヶ月だ。彼が父、チェタンとアイリンをめぐって取引を行ったあの日から一ヶ月。帝国の巨大な官僚機構が、この一通の手紙を吐き出すために、いったいどれほどの手続きを繰り返さなければならなかったのか、彼はおぼろげに想像するしかなかった。翌朝、彼がよそ行きの服装を着込んで玄関に立つと、アイリンが少しすねたような表情でいった。
「私もいっしょに行ったらだめかなあ」
「アイリン、わがままをいうものではないよ」彼は微笑して彼女の頭を撫でながらいった。「私は勉強しに行くんだから。君もちゃんと勉強しなければならないぞ」
「うん。まかせて」
彼女が元気よく答えると、彼はうなずいた。
「よし、その調子だ」
だが、門を出て一人になると、彼の調子のよさは急に影をひそめてしまった。門前には、彼を士官学校まで送り届けるために、すでに馬車が待っていた。
「おい、シアン、なに、シケた顔してんだ?」
突然、頭上から威勢のいい声がして、彼は馬車の客席を見上げた。まっさきに視界に飛び込んできたのは、すらりと伸びた美しい脚線…少し日に焼けて褐色がかっている…それから、脚の付け根までしかないパンツ、むき出しになった細い腰が続き、きわどく胸の開いた袖のない上着の上から、陽気とも獰猛ともつかない瞳が彼を見下ろしていた。
彼がしばらくの間その挑発的な姿態に見とれていると、相手の少女はしびれを切らしたのか、ひと息に馬車の上から飛び下りた。
「聞いてるのか、おい?」
シアンはようやく相手の顔に焦点を合わせて答えた。
「ああ、すまない、ランシー。君に見とれていたんだ」
「朝っぱらから、俺をくどいてどうするつもりだ?」
ランシーの口調にかすかに怒気が混ざると、彼は左右を見回し、さり気なく話題を変えた。
「それより、ランシー。この馬車はうちの馬車だと思うんだが」
「その通りだぜ」
「なぜ、君が乗っているのかな?」
「それはだ」と彼女はなれなれしく、片手を彼の肩にかけていった。「お前が今日から、うちの学校にくるだろうと思って迎えに来たわけだ」そして彼女はシアンに顔を近づけて付け加えた。「…うれしいだろ?」
「うん」シアンは素直にうなずき、御者に聞こえない程度の小さな声でいった。「…キスしてもいいかい?」
「馬鹿!」
ランシーが馬車に勢いよく飛び乗ると、彼も後からその隣に座った。ランシーがまるで自分の馬車ででもあるかのように、御者台に叫んだ。
「走れ、御者!」
リズミカルな振動に揺られながら、シアンは、馬車が走るときに否応なしに出す騒音を避けて、ランシーの耳もとに顔を近づけた。この感じが好きだった。馬車の中で話をしようと思ったら、嫌でもこうしなければならない。女性を口説くには絶好の機会だった。もっとも、消音機付きの馬車ではこうはいかないのだが。彼はいった。「ランシー、ひとつ質問があるんだけど」
「なんだ? キスしてもいいか、なんて聞いたら殴るぞ」
シアンはその言葉は聞かなかったことにした。
「君の着ているのは、なんとなく軍服風に見えるけど、気のせいかな?」
「ああ、これか」ランシーは得意そうな顔で、上着の胸のあたりを指でつまんで引っ張った。服の位置がずれて、あやうく胸の一部が見えそうになったが、彼女は全然気にしなかった。「いいだろ、メイドにちょっと改造してもらったんだ。これが」とランシーは左胸に付けられた、何かの動物をかたどったらしい記章を指差した。「…階級章だ」
「軍服をそんなにしても、いいものかね?」
「別にいいだろ? このくそ暑いのに、長袖、長ズボンなんて、やってられないぜ」
いいながらランシーは、シアンによく見えるように脚を組み、片手で長い髪をかき上げた。
シアンは彼女の言葉に肩をすくめようとしかけたが、彼女の女性っぽいしぐさに見とれて…なぜなら、それはたまにしか見られないものだから…条件反射的に賛嘆の言葉を口にした。
「うん、似合っているよ。ちゃんとした軍服より、その方が何十倍も素敵さ」
「本当にそう思ってるか?」
ランシーの疑わしそうな視線に、彼は熱っぽい瞳で答えた。
「もちろんだとも」
ランシーはしばらくの間、彼が本心からいっているのか見極めようと、その愛敬のある瞳をじっと見つめた。やがて、彼が本気だと判断したのか、機嫌のよさそうな表情を浮かべてたずねた。
「俺もひとつ聞いていいか? 今日のお前はなんか元気がないだろう。また女にでもふられたか?」
シアンは言葉につまった。彼は士官学校に行くのに気乗りがしなかった。当然だ。それは父チェタンとの取引の結果であって、彼本来の志望とは違っているのだから。それに、彼はこの一ヶ月で名の知られている兵書という兵書を読み破っていた。それは科挙を受けるための法律や歴史、文学などの勉強に比べれば、水が砂にしみ込んでいくように彼の中に流れ込んでいってしまい、これ以上、何を勉強するのかという、手ごたえのなさが後に残っただけだった。
彼は取引の内容を…アイリンと暮らしたいがために、文官志望を捨てて軍人になるのだということを…ぶちまけてしまいたいという誘惑にかられたが、結局は理性が勝った。彼は暗い声でつぶやいた。「そんなことはないさ」
「わかった!」ランシーが明るい声で重大発見でもしたかのように叫んだ。「お前、士官学校には男ばかりしかいないと思ってるんじゃないか?」
「違うのかい?」
「まあ、行ってみれば分かるさ」
そしてランシーは、秘密を知っているものだけが見せる、あの楽しげな笑みを浮かべたのだった。
シーアンにある帝立中央士官学校は、その正式名称を武学院といった。武学院の門を前にした、シアンの第一印象は、あまり良好とはいえなかった。第一に、この場所は、屋敷から遠すぎた。馬車で半時間以上。時間がかかるのも無理はなかった。なぜなら、かつてはシーアン城内にあった武学院も、今では人口の増加に耐えられず、城外へと押し出されてしまっていたから。
第二に、武学院自体がシアンの趣味からいってダサすぎた。そして、この場合の「ダサい」には、芸術的見地の欠如という意味が含まれていた。彼は武官の武学院に対する文官の学士院を意識せずにはいられなかった。貴族の中の貴族だけが通うことのできる象牙の塔、白亜の学舎が連なり、皇城を目前に見上げる、あの華麗な学士院に比べれば、この武学院は実用一転ばりの、巨大なだけの無骨な学校だった。
だが、武学院にもとりえがないわけではなかった。そこは賄賂が通用しない、おそらくシーアンで唯一の場所だった。もっとも、それは比較の問題で、賄賂なしで世の中が動いていくと思うほど、シアンは子供ではなかった。
「つっ立ってないで、行こうぜ」とうながしたランシーに、彼はひとことため息とともにつぶやいた。
「美しくない…」
彼は今や一人きりで校長…武学院祭酒と呼ぶべきだったが、生徒たちにとってはあくまで校長だった…と対面していた。校長はよく来てくれた、歓迎すると、型通りのねぎらいの言葉を述べ、それから一人の生徒を呼び入れた。「失礼します」
その生徒が校長室の頑丈なドアを開けて入ってくると、シアンの視線は釘付けになった。
「地獄に花だ…」
彼のつぶやきを、校長が聞きとがめた。
「なんだね、シアン君?」
「いえ、何でもありません」
彼は慌てていいつくろったが、何でもないわけがなかった。入ってきたのは妙齢の美しい女性だった。髪を短く切り、きっちりと軍服に身を固め、軍人の鏡でもあるかのように凛とした緊張感を強烈に発散させているが、それで女性であることを隠せるわけはなかった。むしろ、男と同じ格好をすることによって、その女性らしさが強調され、その美しさをいよいよ引き立てていた。
「ツァオ・ファンリーです」
彼女は片手をひさしの位置に掲げて敬礼した。
「リー・シアンです」
シアンがまねをして答礼すると、彼女は表情を柔らかくして、手を差し出した。
「ようこそ、シアン君。私は君のクラスの委員長だ。分からないことがあったら何でも聞いてくれ」
「ありがとうございます」
シアンは差し出された手を握り返して、長い間に身につけた、年上の女性向の魅力的な微笑みを浮かべた。一瞬、彼女の凛々しい顔に、経験を積んだものだけが分かる、好意をあらわす笑みが閃いた。
彼女の手は想像していたよりも、ずっと柔らかく、そしてあたたかだった。
24 士官学校/麗人と貴公子
廊下は授業を行っている時間の学校がすべてそうであるように、しんと静まり返っていた。「君は若いな」
ツァオ・ファンリーがシアンを見ていった。男装の彼女の唇から漏れ出る声は、低くはなかった。そして、校長室を後にした彼らが、静まり返った廊下にただ二人きりであるという状況が、彼女の声をいっそう魅惑的なものにしていた。
「十八です」シアンは答え、「…委員長」と付け加えた。
彼女の口元がほころんだ。「委員長はつけなくていい。ファンリーと呼んでくれたまえ。私は堅苦しい人間に見えるかもしれないが、君までそうする必要はない」
「それじゃ、ファンリー」シアンは彼女の名前を楽しむようにして注意深く発音した。「…あなたも若く見えるけど、実際は何歳か聞きたいな」
「女性に年齢を聞くものではないよ。だが、君がそういうのなら教えてやらないこともないな…」
彼女は突然話題を変えた。「ついてきたまえ、君を教室に連れて行く前に、一通り校舎を案内しよう」
彼女は歩きながら説明した。「この校舎は、必要な大きさよりもずっと大きなサイズに作られている。なぜだか分かるか? たとえば、この教室は使われていない。代わりに米の貯蔵庫になっている」
彼女は立ち止まって、教室のドアを開けた。シアンがのぞいてみると、教室の半ばは米俵で占められていた。
彼女は顔をしかめて低い声でいった。「誰か横流ししたな…」そしてドアを閉めながら、シアンを振り向いた。「本当なら、部屋いっぱいあるはずなんだが。まあ、気にするほどのことではない」
「この米は何に?」
「兵糧だ」彼女はいった。「来るとき、塀が異常に高いことに気がついただろう? あの塀は飾りではない。戦闘を想定しているわけだ。有事にはこの武学院は、一万の兵を収容できるシーアンの外部要塞として機能するように作られている。そのために、生徒の数よりもはるかに大規模に作られているわけだ」
渡り廊下を渡る途中、シアンは運動場の方から聞こえてくる声に気付いて、視線を向けた。櫓の上から誰かが号令をかけ、生徒たちがそれに応じて何かをやっている。
「あれは、戦術機動の模擬訓練だ。一人が一つの部曲になって、軍団の運動をシミュレーションしている。指揮台の生徒は将軍の役だ。…面白いかね?」
「ええ、まあ」シアンは自分が食い入るようにその光景を見つめていたことに気付いて、顔を赤らめた。「兵書はかなり読んだつもりですが、こんな訓練があるとは知りませんでした」
「楽しみにしていたまえ。君もいずれ、嫌になるほどやらされることになる」
二人が体育館に近づと、そこで何が行われているかは、簡単に想像がついた。聞こえてくるのは、金属と金属がぶつかり合う耳障りな音、そして気合いの入った掛け声、必殺の一撃を生み出すためのステップの音。ファンリーは近づくに連れて大きくなるそれらの音に負けないように、少し声を大きくした。
「ここでは今、剣の練習をやっている。我々は兵隊になるわけではないが、もちろん剣は使えなければならない。君はもちろん剣は使えるな?」
シアンは自分が丸腰であることを強く意識した。そういえばランシーも剣を佩いていたし…そのおかげで彼女の短すぎるズボンがずり落ちるのではないかと彼は余計な心配をしたことを思い出した…目の前のファンリーももちろん剣を持っていた。
彼はさりげなさをよそおって答えた。「もちろん」
ファンリーがシアンを連れて入っていくと、練習をしていた生徒たちが振り返った。
「ファンリーさん、何か御用ですか?」
責任者らしい男が近づいていった。二十代の半ばくらいの男だったが、年下の彼女に対する一見気さくさな態度に、卑屈さが見え隠れしていることに、シアンは気がついた。
「新入生だ」ファンリーがシアンを一瞥して答えた。「うわさは聞いているだろう? 百鬼将軍の御子息だ。彼に校舎を案内している」
そしてファンリーは他の生徒たちの方を向いていった。「かまわず練習を続けてくれ」
ファンリーはシアンを連れて大勢の生徒たちが練習している中を、大股に歩いていった。彼女は不意に立ち止まり、シアンを振り返って剣戟の音に負けないように声を出した。
「君の腕が見てみたいな」
彼女はまわりの生徒たちにいった。「おい、誰か彼に剣を貸してやってくれ」
一人の生徒がすぐに、シアンに剣を渡した。彼は突然の成り行きに戸惑ったが、彼女が先を歩いていくのを、慌てて追いかけた。練習中の生徒たちの何人かが、剣を振り回す手を止めて、二人に視線を向けた。彼は初めて彼らの注目が、ファンリーではなく自分に集まるのを感じた。
彼女は端の方の空いているスペースにいくと、美しい唇に微笑みを浮かべていった。
「シアン君、剣を抜きたまえ」
彼女が剣を抜いたのを見て…あまりに美しいフォームだったので彼はあやうく見とれそうになった…彼も剣を抜いた。
彼は剣を一瞥して形のいい眉をわずかにしかめた。「真剣だ」
「もちろんだ、シアン君。ここには刃をつぶした剣は一振もない。我々は素人ではないからね」
彼女の浅い踏み込みを、彼は軽く弾き返した。お返しに、こちらからも軽い一撃を送る。それから彼女は突然動きを変え、シアンが一瞬やられたかとあせったほど強烈な一撃を繰り出した。
ひときわ甲高い音が響き、生徒たちが一斉にこちらに注目したのが分かった。シアンは気を引き締めた。彼には多少のうぬぼれがあった。何といっても百鬼将軍直伝の剣技を修めているのだから。だが、今やその自信があやしくなっていた。彼は今や静まり返って二人を見守っている生徒たちの視線を、痛いほど背中に感じた。
剣の応酬は少なくとも二十合以上続いた。二人は互いに、右へ左へとステップを踏みながら、相手の隙をうかがった。両者とも、激しく肩で息をし、足元はふらつき始めた。
ファンリーがその視線をシアンの剣先から顔に移して不敵に微笑んだ。そして、肩から力を抜くと剣を下ろして鞘に収めた。彼女は満足げにいった。
「なかなかやるな、シアン君。合格だ」
体育館を出ると、再び剣の音が響き始め、生徒たちが練習を再開したのが分かった。「少し休もう」
ファンリーはシアンをうながすと、階段のところまでいって、そこに腰を下ろした。
彼が隣に越しを降ろすと、彼女は突然おかしそうに笑い始めた。そしてその笑みは、彼があっけに取られた表情で彼女を見つめていることに気付くまで止まらなかった。
彼女はばつが悪そうに顔を赤らめていった。
「いや、そんな顔で見ないでくれ。別に狂ったわけではない。君は気付かなかったか? 彼らの表情に?」
「いえ、そんな余裕はなかった」
「そうか、残念だったな。だが、みんな君の腕を見てあっけに取られていたぞ」
「なぜ?」
「それは、君が新入生だというハンデがあるにも関わらず、私と対等に剣を交えたからだ」
彼女は胸元のボタンを二つばかりはずしながらいった。シアンはあわててのぞき込まないだけの分別があった。彼女は上気した顔で、手で風を送りながら続けた。
「…つまりこういうことだ。今、武学院には、私と対等に戦える人間は数人しかいないわけだ」
「本当に?」彼は軽い驚きを感じていった。
「最近の男どもは腰抜けぞろいだからな。ひさしぶりに骨のあるやつに出会えて、私はうれしいよ」
「それは、光栄だな」
ファンリーはようやく息をととのえると、膝を抱きかかえるようにしてシアンの方へ首を傾けた。そして美しい面に魅力的な笑みを浮かべていった。
「そういえば、私の歳を知りたいといっていたな」
シアンがうなずくと、彼女は秘密を明かすように声を低くした。
「まだ、二十歳になったばかりだ」
「二十歳…」
「何か不都合があるかな?」
シアンはニヤリと微笑み返した。「いいえ、全く」
「私は武学院では下から三番目の年少ということになる。君の十八というのは最年少だぞ、シアン君」
「最年少? 私が?」
「そうだ」
彼は何か計算するような表情で、聞き返した。「シェン・ランシー…猛虎将軍の娘がいるはずだけど…彼女の方が一年早く入学しているから、彼女が最年少でしょう? 彼女のことは知りませんか?」
「ああ、ランシーか、よく知っている。同じクラスだ」
突然彼の頭に警報が鳴り響いた。彼は疑り深い表情でいった。
「同じクラス? 何かの間違いでは…彼女は二年でしょう? それとも留年でも?」
「なんだ、君は知らないのか?」ファンリーはうろんな目つきでシアンを見た。「君は二年に編入されることになっているぞ。百鬼将軍のたっての頼みで特例が認められたと聞いている。だから、どんなに優秀なやつが来るかと楽しみにしていたんだが…」
シアンは最後まで聞いていなかった。入学許可が下りるのに一月もかかったのは当然だ。百鬼将軍リー・チェタンは、一日も早く息子を軍人にしたいがために、政治力の限りを尽くしたのだ。彼ははるか北の僻地にいる父親をいまいましく思った。だが、彼の思いはすぐにこの場に戻ってきた。彼はすぐ隣にいる美しい女性を意識せずにはいられなかった。
彼は微笑みさえ浮かべていった。「全然知りませんでした。父にはめられたな。でも、あなたのような人に会えたのだから、父に感謝しなければならないな」
ファンリーは笑った。「君はお世辞がうまいな」
シアンは鳶色の瞳に、いたずらっぽい光をたたえて、彼女を見つめた。
「お世辞だなんてとんでもない。僕が保証します。あなたは美しい…」
25 士官学校/武学院の薔薇
武学院の食堂は大きすぎて、もう少しそこで食事を取っている者が少なければ、がらんとした印象を与えただろう。だが、シアンはそんな印象を感じることもなく、愛想のよい物腰で、持ってきたトレイを置き、席についた。彼の正面には、案内してくれたファンリーが座った。シアンの注意は、食堂そのものや、いい匂いのする料理よりも、もっぱら彼女の方に向けられていた。
彼女は男性用の軍服を、一分の隙もなく着こなし、それにふさわしく、行儀よく背筋を伸ばして腰掛けると、顔を上げてたずねた。
「ここの印象はどうだ、シアン君?」
シアンはスープをすすろうとして、火傷しそうな熱さに、思わず顔をしかめたところだった。彼はしばらくの間、食べるのはあきらめて、彼女の質問に答えた。
「ええ、思ったよりも普通で…なんとかやっていけそうです」
「君の表現は面白いな。普通というのはどういう意味だい?」
「ええと、つまり…」彼は言葉を探した。「僕のイメージしていた士官学校とはだいぶ違う…」
「つまり、普通ではないと思っていた?」
「そう」彼は調子付いてうなずいた。「つまり…ここは思っていたよりも、女性が多い…華やかな感じがする…たとえば、あなたのような人がいる」
「もっと、武張っていて、男性的なところだと思っていたわけだな」彼女はスープを一口飲んで静かに笑った。「確かに、昔はそうだったかもしれないが、今ではみんな女連れで登校するし、寮には少なくとも一人は女をはべらしておくのが常識だ。風紀が乱れているとか、近頃の帝国軍は軟弱になったという批判もあるけどね。帝国軍は依然として無敵だし、ここの秩序はちゃんと保たれている…こういう状況は気に入らないかね?」
「大歓迎です」彼は断言した。
「それは結構」彼女は笑みを返した。「実をいうと彼女たちの大半は、生徒じゃない」
「生徒じゃない?」
「そうだ。彼女たちが授業を受けているかね? それに、よく見れば階級章が違うことに気付くだろう。あれは軍属の身分章だ。ここでは従卒の仕事をしていることになっている。君も誰か連れてきたいものがあったらそうすればいい。軍属の身分証明をもらうのは簡単なんだ」
シアンの頭に一瞬アイリンの顔が浮かんだが、彼はあわててそれを振り払った。彼は代わりにたずねた。
「そういうあなたはどうなんです?」
ファンリーは大人っぽさを感じさせる唇に、意味ありげな笑みを浮かべた。
「それは秘密だよ。少なくとも今のところは…」
食事が終わってファンリーがいってしまうと、シアンはトレイを返して、入ってきた入り口とは反対の入り口に向かって、あたりをきょろきょろと見回しながら歩き出した。食堂はこざっぱりとした社交的な雰囲気に包まれていた。たとえ女連れであろうとも、口やかましいオブザーバーが風紀について非難を浴びせたとしても、礼儀正しく紳士的な、帝国軍の伝統は保たれていた。
普段なら食指を動かしたくなるような美しい少女たちも大勢いた。だが、彼女たちは軍服によく似た服装をしており、シアンがその中で育った都会的な洗練さからすれば、野暮ったい感じがした。何よりも、ツァオ・ファンリーの端正で引き締まった美貌の前では、それらの少女たちはかすんで見えた。
彼は、彼女たちよりも、むしろ壁を見上げて歩いた。そこには帝国軍の輝かしい歴史が、極彩色で描かれていた。帝国の歴史はすなわち帝国軍の歴史だった。苦しい戦いや、一時の敗北はあっても、それは勝利の歴史だった。
彼は立ち止まり、にっこりと笑った。そして、端の方の席に座り、一人でがつがつと食事を口に運んでいるランシーの方へ近づいた。
彼が正面の席に腰を下ろすと、彼女はうろんそうに彼を一瞥し、それからまた食べるのに専念し始めた。
彼はおもむろにいった。「怒ってるのかい?」
ランシーは顔を上げて、シアンの顔を見つめながら、口いっぱいに頬張った鵞鳥の肉をばりばりと咀嚼した。それから、それをごくりと飲み込むと、ようやく答えた。
「何が?」
彼女のそっけない応対にも彼は動じなかった。
「私を置いて、一人で教室を出ていった。私が一年をスキップしたのが気に入らないんだろう? でも、あれは父上のやったことだからね。私も被害者さ」
「それは関係ない」ランシーは怒ったようにいい、それから控えめに付け加えた。「…ちょっとくらいは、お前が後輩になったらいびってやろうと思ってたけどな。でも、それはほんのちょっとだぜ」
「それは、ありがとう」
「お前、信じてねえな。いいか、お前、あの女には近づかない方がいいぞ」
「委員長? でも、彼女はいい人だよ。それに美人だし」
「ばかやろう!」
突然ランシーは立ち上がって、シアンの襟首をつかんだ。
「お前がいくら女好きでもだ、付き合う女はちゃんと選べ! いいか、あの女は!」
突然ランシーは、はっとしてあたりを見回し、まわりの生徒たちが何事かとこちらに注目しているのに気付いて、腰を下ろした。それから彼女は顔を近づけて、小さな声でいった。
「…ここじゃ、いいにくい。ついて来い」
「それで、何がいいにくいんだい?」シアンは高くそそり立ち、どこまでも続いている武学院の塀にそって歩きながらいった。塀の所々から威嚇的な矢倉が突き出し、眼下を睥睨しているが、もちろん矢狭間から敵を狙って突き出ている弩弓は一つもない。
「あの女は、ここじゃ、武学院の薔薇と呼ばれている」
「へえ、なかなかいいじゃないか」
シアンは嬉しそうに笑みを浮かべた。どんなグループでも、たいてい誰か、ずば抜けた一人がヒーローとして祭り上げられるものだ。彼は猛虎山のエースだったころにマウンドの貴公子と綽名されていたことを懐かしく思い出した。
「よくはないぜ!」ランシーは激しくいった。「あの女は、ここじゃ、女王様だ。真面目ぶってるくせに、男をとっかえひっかえ」
「別にいいじゃないか」
「おまけに両刀使いだ!」
「君だってそうだ」シアンはやさしく指摘した。
「俺は女一筋だ」ランシーは頑固に言い返した。
「それじゃ、私も女か?」
「お前は特別だ。親友だからな、数には入らん。だいたい、お前が女じゃないのが悪い。お前が女だったら、リーチアみたいに可愛がってやるのに」
ランシーはいいながら、鞭を振るうように手を振りまわした。
「それは遠慮するよ」
「とにかく、あの女はやめとけ。お前向きじゃない」
「そうかな。君の話によれば、彼女、私に似てるんじゃないか? 気が合うかもしれないよ」
ランシーは突然立ち止まると、シアンの肩を塀に押しつけて、低い声でいった。
「おい、シアン。お前、俺みたいな恋がしたいんじゃなかったのか? それとも、もうそんなことはどうでもよくなっちまったか?」
シアンはランシーの真剣な瞳を見つめ返した。
「…もちろん、忘れたわけじゃないさ。だけど、ファンリーと恋に落ちる可能性だってあるだろう? 付き合ってみなければ分からないよ」
「その可能性はないぜ」ランシーは彼女らしく断定した。「お前、あの女を見たときに、脳天を割られたようなショックがあったか? 心臓を一突きされたような痛みが走ったか?」
「いいや」彼はかぶりを振った。
「それじゃ、やっぱりハズレだぜ。いいか、恋は運命だ。数撃ちゃ当たるってもんじゃない。お前がほんとに恋を見つけるとすれば、それはもうどこかに用意されていて、出会った瞬間に分かるんだ」
二人はしばらくの間見つめ合った。やがて、シアンが真面目くさった顔でいった。
「ランシー、君はやきもちを焼いているね」
いったとたん、ランシーの右の拳が空気を切り裂く音とともに繰り出された。シアンはもちろんそれを予想していた。ランシーの拳は彼の左手に受け止められ、やさしく包み込まれた。
「俺は、親友としてお前に忠告しているだけだ」
ランシーは頬を染めて反論したが、その視線はさりげなくシアンの顔からそらされていた。彼はやさしげに微笑むと、彼女の手を口元に持っていき、そっとくちづけした。
彼はいった。「それで、私に対してやきもちを焼いているのかい? それともファンリーにかい?」
ランシーはそらしていた視線を、ちらりと彼の方へ向けた。上目遣いの表情は、驚くほど幼く見えた。彼女は、ためらいがちに答えた。
「両方だ…」
「彼女、どうだった?」
「よかったぜ。すました顔だが、情熱的だった。でも、恋をするような柄じゃないっていうのはほんとだ。遊び相手にはちょうどいいけどな。お前はもっと恋人の選び方を考えた方がいい」
「考えておくよ」彼は安心させるように微笑み、すばやく彼女の頬にキスした。「…ありがとう、ランシー」
ファンリーは寮に帰ってくると、歩きながら上着を脱ぎ、彼女の帰りをじっと待っていた従卒のシャ・リーシュンに差し出した。リーシュンはうやうやしくそれを受け取ると、きれいにしわを伸ばして、壁にかけた。リーシュンは実のところ、全然従卒には見えなかった。それは書類上の呼称に過ぎなかった。彼女はメイドの格好をしており、それが彼女本来の職業だった。
彼女が作業を終えて、寝室に入っていくと、ファンリーが服も着ずに、下着姿のままでベッドに腰を下ろしていた。リーシュンが入れたお茶を少し口に含み、夕日に染まった窓の外を、少し物憂げな表情で見つめている。
リーシュンは一瞬、そのはしたない姿をうっとりと見つめた。それから彼女は、職務を思い出していった。
「ファンリー様、そんな格好をしていると、お風邪を召しますよ」
ファンリーが振り返って、男性的な笑みを浮かべた。
「私はそんなにやわじゃないよ。それに、この暑さじゃ、これくらいでちょうどいいんだ」
それから彼女はやさしくいった。
「…おいで、リーシュン」
リーシュンは素直にうなずき、ファンリーの隣に腰掛けた。ファンリーが彼女の顎に手を掛け、唇を重ねる。リーシュンは従順にそれを受け入れた。明日の食事にも事欠くような赤貧のために、権勢を誇る本家へ、売り飛ばされるようにしてやってきて以来、彼女はファンリーに逆らったことなどなかった。
ファンリーは遠い従姉妹の唇を十分に楽しむと、快感のために頬を染めているリーシュンにいった。
「今日、リー・シアンに会ったよ。ほら、以前いっていた、百鬼将軍の息子だ」
「今度も男の方ですか?」
リーシュンの声に疑いの色が混ざった。
「いけないかい?」
「この前の男は最悪でしたもの。ファンリー様に取り入って、引き立ててもらおうなんて」
「そうだな。私を頼ってくれるのはいいが、私にそんな力があると思うような愚かさは御免こうむりたいな。だが、彼にかぎってそんなことはあるまい」
「ファンリー様は、いつもそうおっしゃいます」
「それは嫌みかな?」ファンリーは微笑んだ。「彼は…そうだな、確かに私に取り入ろうという態度が見え見えだが、憎めない男だ」
「ファンリー様はご存知ないんです」
「何がだい?」
「リー・シアン様といえば、その道では有名な方ですよ。女の子に人気があって、大変な女たらしです」
「女たらし? それで君は、私がうぶな小娘みたいに、彼にだまされていると思うわけだな?」
ファンリーは突然、彼女の腰を抱き寄せ、その耳元に熱っぽくささやいた。
「…私はあの男が欲しい。自分のものにしたい。だが、君はそれを嫌だというのか?」
リーシュンはファンリーの激しさに、うわずった答えを返した。
「そんなことは…ありません」
「それでは、君もシアン君が好きなのかな? 彼さえよければ、君を彼に貸してやってもかまわない」
リーシュンは喘いだ。「いいえ、いいえ!」
「では、私が誰と付き合おうと、やきもちを焼かないことだ。私だって、君が恋人とすごすのを邪魔したことはないだろう?」
「でも…」
リーシュンは蚊の鳴くような声でいった。今や、彼女の顔はファンリーの肩にうずめられ、その細い肩は小刻みにふるえていた。それは感情の高ぶりのためというよりも、むしろファンリーの手慣れた愛撫のためだった。彼女は苦しそうに続けた。
「…私、ファンリー様が…心配です」
「君の気持ちはうれしいけど、君が私のことを心配する必要はない。むしろ、私の方こそ君が心配だね。君はただ、私の命令を聞いていればいいんだ。それとも、私のいうことを聞くのは、嫌になったのかい?」
リーシュンは小さな嗚咽を漏らしながら、苦しそうに首を振っただけだった。その健気なようすに嗜虐心を刺激されたのか、ファンリーは喉の奥で笑いながら彼女を押し倒すと、乱暴に服を剥ぎ取って無防備に晒された胸に顔をうずめた。
26 士官学校/薔薇の蜜
シアンの白昼夢はカタリという小さな物音で破られた。目を開けると、メイドのファーリィが、こちらに背を向けて、本棚の掃除をしているのが見えた。すらりと伸びた背筋から足首に至る微妙な曲線が、背中を向けてはいても、彼女が美しい少女であることを雄弁に物語っていた。当然だ。この屋敷にいる奴隷たちはすべて、女に関してはうるさい彼の父親が買い集めたのだから。
それから彼は、机の上に、眠りに落ちる直前まで読んでいた本が置いてあるのに気づいた。彼女が置いてくれたのだろう。
居眠りするにはうってつけの日だった。よく晴れて、外はかなり暑そうだったが、この書院の中はちょうどよい気温に保たれていた。そして、アイリンとフェイミンとその他何人かのメイドたちは、どこかに遊びに出かけていた。彼はアイリン一人がいないだけで、ずいぶんと屋敷の中が静まり返ってしまったように感じた。
シアンはファーリィが掃除にいそしんでいる姿を心地よさそうに眺めていたが、再びしだいにまどろみ始めた。
だが、彼は新たに聞こえてきた、ぱらぱらと本をめくる音に気づいて、眠りの世界から引き戻された。彼は抜き出した本を立ち読みしているファーリィに聞こえるように、咳払いした。
ファーリィはびっくりして半ば飛び上がり、本を背中に隠してシアンを振り返った。
「も、申し訳ありません、シアン様。起こしてしまって…」
彼女の顔が真っ赤になっているのを見て、彼はぷっと吹き出しそうになるのをこらえた。
「いや、いいよ。それより、私の本を読むときは、ひとこといってくれないかな? ほら…」彼はいいよどんで、少しはにかみながらいった。「…女の子向けじゃない本だってあるだろう?」
ファーリィは得心がいったのか、ちょっとからかうような表情を浮かべた。
「それなら大丈夫です。アイリン様が持ってるのは、もっとすごいですから」
シアンは少しだけ眉を上げた。
「…比較ができるというのは、読んだってことだね?」
「え、ええと…」
困った顔の彼女を見て、シアンは微笑んだ。彼はそれ以上追求しようとはせず、話を変えた。
「そうだ、前から聞こうと思っていたんだ。ファンリーという名前に聞き覚えがないかい?」
「シアン様の新しい恋人ですか?」
「それは秘密さ。ツァオ・ファンリー、君と同じ名字、名前もよく似ている。ひょっとして、君の一族じゃないかと思ったんだけど」
「それは…私には分かりません。父が生きていれば、何か分かったかもしれませんけど…」
表情を曇らせたファーリィを見て、シアンは慌てた。
「…すまない、ファーリィ。嫌なことを思い出させてしまった。お詫びに、何かおごるよ。それで、許してくれないかい?」
「本当ですか?」
目を伏せていた彼女が、ちらりとこちらを向いた瞬間、シアンはその瞳に「しめた!」という色が浮かんだのを見て、内心ひるんだ。だが、彼は女性に後ろを見せるようなことはできなかった。彼はいった。
「私の財布で何とかなるものならね」
ファーリィが一歩近づき、シアンの顔をのぞき込むようにしていった。
「お金で買えるものはいりません。お給料、たくさんもらってますもの。だから、私に好きだっていってくれたら、許してあげます。あ、もちろん演技ですよ。シアン様にいわれたら、どんな気分がするのか知りたいんです」
「ほんとにそれでいいのかい?」
ファーリィがこくりとうなずくと、彼は立ち上がって、彼女の頬に手を当てた。みるみるその頬が恋する乙女の桜色に染まり、瞳が潤み始める。彼はやさしくささやいた。
「…好きだよ」
それからシアンはサービスのつもりで、彼女の頬に、軽くキスした。その途端、彼女の全身から力が抜けた。彼は慌てて、ファーリィのやわらかな肢体を抱き止めた。
「大丈夫かい、ファーリィ?」
「だ、大丈夫です」彼女は恥ずかしそうにいった。「申し訳ありません。みっともないとこ、お見せしちゃって。ちょっと、くらくらしてしまいました」
「よかった。立てるかい?」
「はい、立てます、立ちます」
シアンが手を離すと、ファーリィは真っ赤な顔でいった。
「あ、あの、そのファンリー様ですけど、私の一族かどうかは分かりませんけど、名前は聞いたことがあります。カッコよくて、女の子に人気があって、それから…」
「それから?」
「…ええと、衛将軍様の姪だそうです」そしてファーリィは心配そうな顔でいった。「だから、シアン様も気をつけた方がいいですよ。ファンリー様に変なことして、衛将軍様に目をつけられたら、いくらシアン様でも首を刎ねられてしまいますもの」
「そうか、ありがとう。気をつけることにするよ」
シアンが礼をいうと、ファーリィは慌てたようすで、書院を出ていった。すぐに、彼女が廊下を全力疾走する音が聞こえ、「きゃっほー!」という彼女の奇声が遠くから響いた。
シアンは彼女が他のメイドたちにここでの出来事を知らせたら、何が起きるか想像して、困ったように頬を指で掻いた。彼は早急に出かけることに決めた。
東三条…通称、奴隷市場…は、この日差しの強さにもかかわらず人出が多かった。シアンは参考書を買うために、いつもの本屋へと足を向けた。実のところ、武学院での授業についていくのは、彼にとっても簡単ではなかった。彼には一年間のブランクがあり、それを埋めるために、人より余分に勉強する必要があった。そして、今必要なのは、火炎弾…魔道士の使う一般的な攻撃魔法…の弾道計算をするための、物理学と魔法学の本だった。
彼は本屋の前まで来て、不意に足を止めた。本屋の陳列窓に一瞬うつった人影に、見覚えがあった。彼は後ろを振り返り、その人物を探した。
彼女の美しい姿を見誤ることなど、シアンには不可能だった。とりわけ、彼女が軍服を着て、男装などをしていればなおさらだ。道の真ん中を横切る堀の向こう側を、メイドを連れたツァオ・ファンリーが歩いていくところだった。
ファンリーもまた、ほとんど同時にシアンの姿を見つけた。シアンもまた人目につく容姿の男であり、ファンリーは、男女を問わず、その手の人物を見逃すことはなかった。
「奇遇だな、シアン君」
「あなたのような人と、こんなところで会うとは思いませんでした」
彼は友好的に微笑みを返したが、その裏ではメイドのファーリィのいった言葉が渦を作っていた。彼女が衛将軍…今をときめく、あの衛将軍だ!…の姪だとすると、確かにこんな庶民的な街へやってくるのは似つかわしくなかった。そして彼は、今の言葉が皮肉と受け取られたのではないかと、一瞬冷やりとした。
「それは皮肉かな」彼女は彼が今まさに考えていたことを口にした。「私は箱入りのお姫様ではないからね。行きたいときに、行きたいところに行くのさ」
彼女の口調が、別に気分を害した風でもなかったので、彼は安心した。
「どこへ行くんです?」
「奴隷商会だ。いい赤い貴婦人でもいないかと思ってね」
「赤い貴公子じゃないんですか?」
彼がからかうようにいうと、ファンリーはやや皮肉っぽく答えた。
「どうやら、私について、いろいろと悪い噂を聞き込んだみたいだな。その話はまた今度。二人っきりのときにでも、じっくりしようじゃないか」
「望むところです」
彼は機嫌よくいい、手を振って別れた。
ファンリーは大股で…しかしメイドのリーシュンにあわせて、緩い歩調で…歩きながらいった。「今のがリー・シアンだ」
「知っています」
リーシュンが答えると、ファンリーは怪訝そうな顔で彼女を見た。リーシュンは少し顔を赤らめて微笑んだ。
「…私、シアン様のファンクラブに入っていますから」
「ファンクラブだって? そんなものがあるとは知らなかったな。役者でもないのに」
「ファンリー様がご存じないのも当然です。私みたいな下々の者の集まりですから。ファンリー様のファンクラブもありますよ」
「そうか…」ファンリーは少し唇の端をゆがめて思案した。「そういうことなら、機会があったら、君も彼に紹介してやる」
「それは遠慮します」
ファンリーは意外そうな顔をして立ち止まった。「なぜ? ファンクラブに入っているということは、彼に気があるのだろう? 自分がシアン君と釣り合わないと思っているのなら安心したまえ。私が見たところ、あの男はかなりの女好きだ。君の容姿があれば簡単におちるよ」
リーシュンはおだやかに首を振った。
「私たちにとって、シアン様は憧れなんです。憧れを現実と交換したくはありません」
「可愛いことをいうね。嫌なところは見たくないというわけか」
リーシュンがうなずくと、ファンリーは大人びた笑みを浮かべた。
「…自分の体で感じてみなければ、男のよさは分からないものさ」
やがて二人は、目的の奴隷商会に着いた。店の表看板には、大きく「タオ・ローチン奴隷商会」の文字が浮かんでいる。ファンリーとリーシュンが中へ入っていくと、タオ・ローチン本人が顔を上げ、やわらかな物腰で近づいた。
「これはこれは、ツァオの姫様、今日は何がおいりですかな?」
「赤い貴婦人」
ファンリーが短く答えると、店主はいかにも残念そうな顔でいった。
「残念ながら、今は子供の赤札は入っておりませんので…」
「私は別に子供など要求していないが」
「おや、そうでしたか? それでは、先日、あの子供を熱心に口説いておられたのは、いったいどうしたご酔狂で?」
「お前は、何も分かっていない」ファンリーは奴隷商人を見下ろすと、問答無用でいった。「そうだ、あの娘が誰に買われたか教えろ。そうすれば、あの娘の値段と同じだけ金をやるぞ。どうだ?」
「残念ながら、そればかりはご勘弁を。奴隷法によって固く禁じられておりますので」
「ふん、まあいい。それでは、今いる紅娘に会わせろ」
「はい、ではこちらへ。今年一番の美しい娘ですよ。十五歳で身寄りはありません。力強い女性の庇護を希望しています。あなたとは、よい組み合わせになるでしょう」
ファンリーは、その性奴隷の娘が待っている部屋へ、一人で入っていった。十五分後、彼女が部屋から出てくると、奴隷商人は穏便な物言いでたずねた。
「いかがでしたか?」
ファンリーは首を振った。そして、店から出ようと歩きながら、つぶやくようにいった。
「美しい娘だったが、あれではだめだ。美しさは決め手にはならない。年齢もな。一生を共に暮らすのだ。何か別のものがなければならない」
ファンリーはいったが、別のものが何を指すのかは、自分にも分からなかった。彼女は振り向くと、彼女を送り出そうとついてきたタオ・ローチンにいった。
「…おい、本当にこの間の娘の居所を教える気はないのか? 奴隷協会の監督者を買収するくらいの金はあるぞ」
タオ・ローチンは少し憐れみのこもった瞳で、やさしくさとすようにいった。
「ツァオの姫君、あなたは勘違いをしておられる。奴隷協会の者たちは、たとえハーン人であったとしてもハーン人ではないのです。彼らは帝国の官僚のように、賄賂で動かされたりはいたしません。衛将軍様の姪であられるあなたに、こんなことをいうのは無礼なことかもしれませんがね」
「確かに無礼だな。だが、私に直接の関係はない。我が帝国軍は、文官どものように腐ってはいないからな」
ファンリーは肩を怒らせて奴隷商会を出てきたが、すぐにリーシュンの心配そうな表情に気づいて、やさしく微笑んでみせた。「どうした、リーシュン? そんな顔をする必要はないぞ」
「私、怖いんです。ファンリー様が、赤い貴婦人を買ったら、私…」
ファンリーは彼女の瞳の中に怯えの色を見て取った。ファンリーは息を吐いて目を閉じ、なだめるようにいった。
「そうか、私が赤い貴婦人を買ったら、自分は捨てられると思ったんだな? 私がそんなことをするほど薄情な女だと思ったのか? 私が君を愛していることに気づかないほど、君は愚かなのか?」
「でも…」リーシュンはいいよどんだが、やがて、顔を上げていった。「私ではだめなのですか? 夜のお相手だって、もっと一生懸命やります。ファンリー様が望むなら、どんなことだって…」
「しっ」ファンリーは人差し指で唇を押え、あわててあたりを見回した。「声が高いよ、リーシュン。人に聞かれたら恥ずかしいじゃないか」
それから彼女は、歩きながらリーシュンに言い聞かせた。
「…いいかい、リーシュン。私はもう、普通の結婚をする気はない。そして君はといえば、そのうち誰かと結婚することになるだろう。たとえば、今付き合っている男とかね。それはいい。私はそれを祝福するだろう。君たち庶民は、好きな相手と結婚できるわけだからな。だが、残された私はどうなる? ほら、これで分かっただろう? 私には赤い貴婦人が必要なんだ。あるいは、赤い貴公子がね」
ファンリーはうつむいたリーシュンの横顔を見つめ、ため息を吐いた。
「…どうやら、君には言葉でいってもだめなようだね」彼女は店の看板を見上げていった。「よし、ここだ! 君も一緒に来たまえ。体に教えてやる」
「ええっ、私もですか?」
リーシュンは真っ赤になっていった。その店は洒落た店構えの妓楼だった。そして、リーシュンは、ファンリーがしばしばそのようなところへ出入りしていることは知っていたが、自分が入ったことは一度もなかった。
ファンリーは、細い彼女の腕をつかむと、無理矢理店の中へ連れ込んだ。店の名前は紅輝楼といった。
「シアン君!」店の中に入ったファンリーは、驚きの声を上げた。相手の方もそれは同様だった。
「ファンリー、なんだか今日はよく会いますね」
「それは、こちらの台詞だ。何をしている? いや、聞くだけ野暮だな」
受付をしている女将がうながすと、ファンリーは指名をいった。
「ミンミンとスー・フィン」
女将は気の毒そうな顔をした。
「あら、ごめんなさいね。たった今、こちらの方がご指名になったばかりなんですよ」
ファンリーは再びシアンの方を見た。
「おい、シアン君。どうやら、君と私は、異常に馬が合うらしいな」
「そのようですね」彼は肩をすくめた。
「まあいい、今日のところは君に譲っておく。それじゃ、女将、別の娘でいい」
それぞれ別々の部屋に案内される段になって、ファンリーはシアンに捨て台詞をいった。
「それじゃ、シアン君。縁があったら、また会おう」
一時間半後、ファンリーはリーシュンを連れて、部屋から出てきた。二人がかりの濃厚な愛撫を受けたリーシュンは、熱に浮かされたようなぼうっとした表情で、ファンリーの腕にしがみつくようにして歩いた。そして、店から出るために女将と挨拶を交わしたとき、ファンリーは視界の端に、二階から降りてくる人影を認めて、半ばうんざりしたようすで振り返った。彼女はもう驚く気にもならなかった。ファンリーはシアンが挨拶をするのをかたわらで待ち、一緒に店から出た。青かった空は、もう紫から赤へと変化し始めていた。
ファンリーはシアンの顔を見ると、こらえきれずに笑い始めた。ようやく笑いがおさまると、彼女はシアンを見つめ返していった。
「どうやら、私と君の間には、何かの縁があるということが証明されたようだな」
「そのようですね」
彼は若いくせに深みのある、おだやかな瞳で答えた。ファンリーはその瞳に引き込まれそうになった。昼間見たときには、もっと軽薄で子供っぽい感じがしたはずだった。彼女の本能が、間違えようのないシグナルを発した。彼は私を誘っている!
考えることなど何もなかった。なぜなら、彼女自身、本能の人だったから。軍人になるために生まれてきたような、きびきびとした動作や、全身に漂う緊張感は、単なる外見に過ぎなかった。彼女はその本能をあらわにして、艶かしい唇で、彼を誘った。
「シアン君、君にチャンスをやろう。これから、君を夕食に招待したい。十秒以内に答えたまえ」
「その子に悪いな」
「この娘は私の影だ。だいじょうぶ、おとなしくしているよ。君が気にすることはない。さあ、もう十秒たったぞ、どうする?」
彼は大人びた笑みを浮かべて答えた。
「もちろん、私が美人の誘いを断るわけがありませんよ」
夕食を終えて、シアンとファンリーは、彼女の寝室で初めて完全な二人きりになった。彼女の部屋は寮で最も高い位置にあり、広々としたシーアン西方の沃野を一望することができた。そして、その向こうに、真っ赤な夕日が、世界を血の色に染め上げたまま沈みつつあった。部屋の明かりはまだ点けられていなかった。シアンは薄暗い部屋の中で、半ば影となって浮かび上がっているファンリーの横顔を見つめた。彼女はくつろいで、太陽が沈んでいく壮大な光景を眺めていた。
ファンリーは誰にいうともなくいった。
「分かるか、シアン君。この部屋は武学院の西側にあるもっとも高い場所だ。戦いの時には、この方面の戦闘指揮所になる」
シアンは答えなかった。なぜなら、実際に敵がシーアン城外まで押し寄せてくることなど、あるわけがなかったから。
彼女はシアンを振り返って、微笑んだ。
「緊張しているのか、シアン君。リラックスしろ。別に私は君を取って食おうなどと思っているわけではないぞ」
「さあ、どうでしょうね?」
「どうやら君は、私に取って食われたいようだね」
シアンは誘いの笑みを浮かべた。
「あなたになら、食べられてもいいな」
「よろしい。服を脱ぎたまえ、今の私たちには不要なものだろう?」
彼女の美しい裸体をゆっくりと観賞する時間はなかった。ファンリーはシアンの唇を激しくむさぼった。シアンもそれに答え、形の良い二つのふくらみを、容赦なく愛撫した。アイリンを前にしたときの、壊れやすいガラスを扱うようなやさしさは、ファンリーには不要だった。
二人の体はしだいに熱くなり始めた。ファンリーはいったん唇を離すと、自らの花弁をまさぐり、濡れそぼった指を、自分と、そしてシアンに見せつけた。彼女の蜜が、夕日の最後の光を浴びて、美しく輝きながら、白い腕を滴り落ちていった。
「見ろ、シアン君。男の格好をしていても、私は女だ。私の体は君を求めている」
そして彼女は濡れた指を嘗めると、シアンにささやいた。
「…私が上になってもいいか?」
「あなたがそういうなら…」
激しい交接の余韻は、まだほとんど消えていなかった。ファンリーはシアンの汗に濡れた髪を荒々しくかき乱し、その唇を丹念に吸った。彼女はシアンの澄んだ瞳を見つめていった。「シアン君、君は可愛いな。年下の男も悪くないと初めて知ったよ」
彼は透明感のある笑みを浮かべた。
「あなたこそ、とても情熱的だった」
「驚いたかい?」
「少し」それからシアンは、彼女の体をさりげなく愛撫しながらいった。「…お願いがあるんだけど、いいかな?」
ファンリーは少し目を細めた。
「何でもいってみたまえ。私にできることなら、聞いてやらないこともない。金か? 地位か?」
シアンは驚いたような顔で、ファンリーを見た。
「そんなことを頼む人がいるの?」
「私は衛将軍ツァオ・フーレンの姪、金も権力もある」彼女は朗読するようにいい、彼に視線を移した。「…知らなかったのか?」
「知っていたけど、あなたにそんなことを頼むなんて無粋だな」
「それでは君は何を頼む?」
シアンは子供っぽい笑みを浮かべた。
「今度は僕が上になってもいいかな?」
ファンリーは喉の奥でおかしそうに笑った。
「よかろう。ただし、楽しませてくれなければ、後でお仕置きするからな」
27 士官学校/奪われた紅玉
アイリンは自分のそれほど長くない髪を、自分がもっとも色っぽいと思うしぐさでかきあげた。それは、いっしょに入浴するフェイミンのまねだった。少なくとも、そのつもりだった。しっとりと濡れた髪が、指の間をすり抜けていく間に、魔法によって温められた空気によって、さらさらに乾いていく感覚は、魔法使いだけの特権だった。部屋の前に着いたときには、もう準備は万端整っていた。彼女は部屋に入ると立ち止まって、幼い顔に嬉しそうな笑みを浮かべた。
ベッドの上にはシアンがいた。夜這いにも行かずに!
恋人たちにふられてからというもの、彼は夜も屋敷にいることが多くなった。アイリンはそれがうれしかった。とりわけ、彼が昼間、士官学校へ行っていて、いっしょにいられる時間が短いとなれば、そのうれしさもひとしおというものだ。
アイリンはベッドの上によじ登ると、仰向けになって本を読んでいるシアンのところへ這っていき、そのかたわらに横になって、シアンの腕の付け根あたりに頭をすりよせた。
彼女はしばらくの間、その姿勢で満足していたが、やがて自分も仰向けになって、シアンの読んでいる本をのぞき込んだ。魔法という文字が見えたので、アイリンはちょっぴり興味をひかれた。それは、弩弓と火炎弾の、空気中における弾道特性の違いに関する論文だった。アイリンにはさすがにその内容は難しすぎて、半分ほどしか意味が分からなかった。だが、アイリンとしては、シアンといっしょの本をのぞき込んでいるだけで、なんとなく幸福な感じがした。
やがて、シアンが身じろぎし、「いい匂いだな」とつぶやいた。洗いたてのアイリンの髪の匂いをかいだのだろう。それから彼は、本を閉じてかたわらに置くと、アイリンの方に向き直った。
「なんだかとてもうれしそうだね」
シアンがたずねると、アイリンは元気よく宣言した。
「だって、ご主人様といっしょなんだもん!」
「そうか、それはうれしいな」
アイリンは寝返りを打つと、上半身の体重を彼の胸の上に預けて、その瞳をのぞき込んだ。
「本当?」
「本当だとも」
シアンが確信を持って答えると、アイリンは彼の頬を両手で包み込むようにして、自分の唇を彼の唇に押し付けた。しばらくして、アイリンが唇を離すと、シアンは彼女の髪を撫でながら微笑んだ。
「だいぶキスが上手になったね」
アイリンは嬉しそうに答えた。「だって、毎日練習してるから」
「私が眠っている間にかい?」
「え、えーと…」
彼女がばつが悪そうに口ごもると、シアンの口元に、少し意地悪な笑みが浮かんだ。彼は、アイリンがこっそり、眠っている自分を練習台にしていることを知っていた。アイリンは及び腰になって、彼の上からじりじりと撤退し始めた。
「なぜ逃げるんだい?」
シアンが上半身を起こすと、アイリンはびくりと肩をすくめて、彼をいたずらっぽい上目遣いで見上げた。
「だってぇ…」
シアンはにやりと笑みを浮かべた。次の瞬間、すばやく伸びた彼の手が、アイリンの華奢な体をしっかりと押え込んでいた。
「ご主人様のえっち!」
彼女はくすぐったさに笑い転げながらも、彼の手から逃げ出そうとしてじたばたした。
「エッチなもんか!」シアンもまた笑いながらいい返した。「君の方がずっとエッチじゃないか」
「そんなことない。ご主人様の方がずーっと、ずーっと、えっちだよ」
「どうして?」
「だって、さっきからずっと私の胸さわってるもん」
「おや」彼はしらばっくれた。「別に胸なんてどこにもないぞ」
「ご主人様のいじわる。どうせ、私、子供だもん」
アイリンは暴れるのをやめて、拗ねたような表情でいった。シアンは彼女を捕まえた腕から力を抜いて、やさしく抱きしめるように、自分の胸元に引き寄せた。彼はやさしくささやいた。
「そんなこと気にすることないさ。ランシーだって、そんなに大きくないだろう?」
「だって、ランシーはランシーだよ。胸が大きかったら、おかしいよ」
「いや、私がいいたいのは、こういうことさ。つまり、私は胸の大きさで、女の子の好き嫌いを決めたりしないってこと」
「でも、大きい方が気持ちいいでしょ? 私は赤い貴婦人だもん。私の仕事はご主人様を気持ちよくしてあげること。私、はやく大人になりたいな。そうしたら、フェイミンくらいに大きな胸になるんだ」
シアンは一瞬、「フェイミンはそんなに大きな胸じゃないぞ」といいかけた。が、子供の夢を壊すものではない。彼はアイリンの頬に、そっとキスした。
「アイリン、そんなに急いで大人にならなくてもいい。私は、いつまでもずっと君のそばにいるんだから」
アイリンが顔を上げて、その鳶色の瞳でシアンの瞳をまともに見つめた。魔法灯の揺らぎのない明かりが、その曇りのない水晶球に反射して、美しく輝いた。
「本当に待っててくれる?」
「当たり前じゃないか。君は赤い貴婦人で、私はご主人様。そうだろう? 二人は永久に離れられないのさ」
「うん」アイリンは素直にうなずいた。「あのね、私、ご主人様にいいこと教えてあげる」
「なんだい?」
「私、ご主人様のこと大好きだよ」
「それはうれしいな」シアンは少し顔を赤らめていった。「それじゃ、私もいいことを教えてあげよう」
「うん」
「私もアイリンが大好きさ」
アイリンはそれを聞くと、くすくす笑った。「うれしいけど、ちょっと恥ずかしいね」
「そうだな」シアンは照れたように、頬を掻いた。
「ねえ、ご主人様。キスしてもいい?」
アイリンがまっすぐ彼を見上げていうと、シアンはそっと彼女の頬に触れ、やさしく微笑んだ。
「もちろんさ」
その日の朝食は、いつものように順調には行かなかった。「えーっ、そんなのやだよ!」
アイリンはシアンの話を聞くなり、抗議の声を上げた。シアンは驚かなかった。この程度の反応は予想のうちだった。彼は忍耐強く説明した。
「すまない、アイリン。だが、これは、どうしても必要なことなんだ」
「どうしてもって、どうして?」
「つまり、父上が私に無断で二年に入学させたから、私としては他の人より一年分余計に勉強しなければならないんだ。そして、武学院はシーアンの外にあって、ここからはかなりの距離がある。だから、寮に入れば、その通学時間がまるまる勉強に使えることになるわけだ」
「それは、仕方ありませんわね。シアン様がいないと、少しさみしくなりますけど」
フェイミンが食べ終わった後のお茶をすすりながら、おだやかにいった。だが、アイリンは「うー」とくぐもった唸り声をあげたきり黙り込んだ。シアンの説明は理解できるが、気持ちがおさまらないのだろう。
彼はとりあえずアイリンを無視して、フェイミンにいった。
「そういうわけで、私が留守の間のことは、よろしく頼むよ」
「はい、シアン様」フェイミンはにっこり笑い、それから付け加えた。「もっとも、シアン様がいらしても、あんまり役には立ちませんけどね」
シアンはあえて、彼女の言葉には逆らわないことにした。彼はアイリンに注意を戻し、さっきから拗ねたように爪を噛んでいる彼女に話しかけた。
「ねえ、アイリン。寮に入るとはいっても、週に二三日は帰って来るんだから、そんなに深刻に考える必要はないんだよ」
アイリンは突然立ち上がった。
「私もいっしょに行く! そうすれば、何の問題もないよ。いいでしょ、シアン様」
「ええっ!」彼は意表を突かれて驚きの声をあげた。「…ちょっと、アイリン、私は勉強しに行くんだよ」
「そのくらい、知ってるよ。でも、私、赤い貴婦人だもん。シアン様がベッドで一人で寝たりしたら、私、困るもの」
「どうして困るんだい?」
「だって、私、赤い貴婦人だから」
「ううっ」シアンは頭を抱えた。彼は突如、名案を思い付いていった。「そうだ! アイリン、君にだって勉強があるだろう。だから、連れて行くわけには行かないよ」
だが、その名案も、フェイミンのやさしい指摘で、すぐに粉砕された。
「別にかまいませんよ。アイリン様はシアン様と違って優秀ですから、宿題を出しておけば大丈夫でしょう」
彼はフェイミンの楽しそうな顔を見て、突然自分が二対一で孤立していることに気づいた。彼はフェイミンに愛していると…自分はあなたのものだと…告白されはしたが、その愛情の内容についていえば、味方にまわるよりも、試練を与えて彼の行動を見守る…観察する…ことの方が多いのだ。彼は飼っているカエルをつついて、ジャンプさせては、にこやかに微笑んでいるフェイミンの姿を思い出して、少し複雑な気分になった。
「ほら、フェイミンはいいっていってるよ。ねえ、シアン様、いいでしょ?」
アイリンはここぞとばかりに、彼の肩をゆすった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、アイリン。ご飯が食べられないじゃないか」
シアンは箸を口に運び、咀嚼している間に頭を働かせた。
「…アイリン。やっぱり無理だと思うんだ。ほら、武学院は軍人の学校だし、子供を連れていったらまずいんじゃないかな」
午前中の間に、シアンは荷物をまとめて武学院に到着していた。アイリンといっしょに。結局シアンは押し切られた。奴隷に対する奴隷主の立場は、ある意味弱い。奴隷主は奴隷の職分内でなら、どんなことでも命じることができるが、同時に、奴隷には労働権があって、その職分を停止することはできない。シアンはアイリンが頭のいい子供であり、そのことを知っていることを知っていた。
今回の場合、シアンの言い分の方に理があったが、奴隷協会は他のあらゆる団体と同様、公正無私ではなかった。彼らはおそらくアイリンの主張を支持するだろう。そして、奴隷関係の争議を裁くのは、帝国ではなくて、奴隷協会なのだ。
「わー、おっきぃ!」
武学院の正門を見上げて、アイリンは元気よく驚きの声を上げた。リー家のそれの十倍の大きさはあるだろう。シアンはそれがまるで自分のものでもあるかのように説明した。
「帝国の将軍たちは、みんな一度はここで勉強したんだ。もちろん、父上もね」
アイリンは彼を尊敬のまなざしで見上げた。
「それじゃ、シアン様も将軍さまになるの?」
「さあ、それはどうかな」
彼は首をひねった。
「この部屋ですよ」寮の管理人に案内されたシアンは、扉の前に立って、途方に暮れたように視線をさまよわせた。やがて、その視線は管理人の美しい顔…年上だったが美人にはちがいない…のところへたどり着いた。
「ねえ、メイヤン」
と彼はなれなれしく呼びかけた。彼は管理人室へ出頭して、ここまで来るまでの十分間の間に、女性に対する影響力を十分に発揮していた。
「どうしました?」
彼女はしらばっくれて微笑んだ。
「ここは、女子寮じゃないのかい?」
彼は控えめに指摘した。そのあたりの物干し竿に、女性の下着が並んでいるのを見れば、それは明らかだった。管理人は悪びれもせずに説明した。
「ごめんなさい。男子寮は今空いてないのよ」
「でも、だからといって、私を女子寮へ入れていいということにはならないんじゃないかな? ほら、規則だっていろいろあるだろう?」
「ないわよ」
「え?」彼は聞き返した。
「ないのよ、そんな規則は。ここでは私が法律なんだから。本当は追い返してもいいんだけど、あなたにはサービスしてあげる。それに、あなたにはその方が都合がいいんじゃなくて? プレイボーイさん」
その時、隣のドアが開き、「何が都合がいいんだって?」という声が聞こえてきた。
「ランシー!」
シアンは思わず声を上げた。彼女はそれに答えて片手を上げた。
「よぉ、シアン」
彼はしばらくの間、呆然としたようにランシーをまじまじと見つめた。頭はまるで今起きたばかりのようにぼさぼさ、瞳は眠気のためか半ば閉じられ、なによりやたら短いシャツに、パンティひとつという姿が…たとえベッドの上では見慣れているとはいえ…昼の光の中では刺激的だった。
シアンはさすがに顔を赤らめたが、管理人は別に気にした様子もなくランシーに話しかけた。おそらく、ここではこの程度の行儀の悪さは普通なのだろう。
「新入りよ、ランシー。隣の部屋だから、仲良くしてあげてね」
ランシーはぱっちりと目を見開いた。
「新入り? こいつが? 女子寮に?」
「そうよ」
彼女は叫んだ。
「羊の群に、狼を入れるようなもんだぜ!」
だが、管理人は相手にしなかった。「あなただって狼みたいなものでしょう。二人ともあんまり派手にやっちゃだめよ。すぐに放り出しますからね」
「ランシー、どうしたの?」
ランシーの部屋の奥から声が聞こえ、女性が一人出てきた。彼女はシアンを見るなり、艶っぽい表情になっていった。
「あら、可愛い男の子」
「リー・シアンです」彼は条件反射的に、魅力的な微笑みを浮かべた。
ランシーが喚いた。
「だーっ! シアン、人の女に色目を使うんじゃねぇ!」
それから彼女は女を引きずるようにして、部屋の奥へ消えた。
「ランシー、女の人といっしょだったね」二人きりになると、アイリンがいった。ベッドの柔らかさを確かめるように、勢いよく腰を下ろす。
シアンは落ち着かなげに、室内を見回した。狭い。屋敷のシアンの部屋には比べ物にならず、二つある部屋を足してどうにかという広さだった。もっとも、庶民のアイリンはその点、まったく気にしていないようだった。彼はアイリンの視点なら、この部屋ももっと広く見えるはずだと思い、彼女のかたわらに寝そべった。
彼は自分の腕枕の上から、アイリンを見上げて答えた。
「ランシーは結構女の子にはもてるんだ」
彼の声音にちょっと自慢するような響きがあったのか、アイリンが不満そうに聞き返した。
「ご主人様よりも?」
「どうかな?」彼は少し考えた。「何人にもてるかということなら、私の方がもてるだろうな。でも、ランシーの場合、相手が百合なら百発百中だからね」
シアンはいった後で、百合の意味がアイリンに分かるだろうかと心配した。だが、それも一瞬の間だけだった。子供とあなどってはいけない。その方面の知識はシアンよりも豊富なのだ。何といっても、それが彼女のライフワークなのだから。
アイリンは彼の隣にうつ伏せに寝そべり、頬杖をついて、足をぱたぱたさせた。彼女は何か思案するようにいった。
「女の子どうしって気持ちいいのかなぁ?」
「試してみるかい?」
シアンが何気なくいうと、アイリンはぱたぱたをとめて、じっとシアンを見つめた。彼はその視線に気づいて「なんだい?」というように首を動かした。彼女はいった。
「私、赤い貴婦人なんだよ。シアン様以外とはせっくすできないの知ってるよね?」
「いってみただけさ。ただ…」彼はいいかけて記憶を探るように顔をしかめた。「…ええと…私の記憶が正しければ、ある一定の条件を満たした場合には…」
彼は不意に言葉を途切れさせた。アイリンが人差し指の先を唇に含み、不安そうな瞳でこちらを見ていた。彼は起き上がると、彼女の小さな体を抱き起こして、膝の上に乗せた。これが、アイリンが彼に対してもっとも無防備になる姿勢であり、したがって、もっとも安心感を得られる姿勢でもあった。彼はやさしくたずねた。
「どうしたんだい、アイリン?」
アイリンは子供のように…つまり、シアンの娘でもあるかのように…無垢な瞳で彼を見上げ、それから大人びた仕種で瞳を伏せ、シアンの服の端を握りしめた。
「…シアン様、ほんとは私が来たら迷惑だったんだよね」
シアンはそれを聞いてほっと胸をなで下ろした。
「そんなことを気にしていたのかい?」
彼は陽気にいうと、アイリンを下ろして、ごろりと寝転んだ。
「そんなことじゃないもん!」
アイリンは怒ったように、シアンの背中をぽかぽか叩いた。
「いたたた」彼は寝返りを打って、その打撃から逃れた。「君はランシーと同じで手が早いな」彼は好意的な笑みとともにいい、「こっちへおいで」と彼女の細い手を引っ張った。
シアンはアイリンを組み敷くと、その小さな唇にやさしくくちづけした。彼は大真面目でいった。
「君がいると確かに一つだけ困ることがある」
「なぁに?」
「楽しすぎて、勉強が手につかなくなるんじゃないかと心配なんだ。たとえば、今だってそうだ。荷物を取り出さなくちゃいけないのに、君とこうして…」彼は再びキスした。「…こんなことをしている。だから、君を屋敷に残して来ようとしたのさ。わかったかい?」
「うん、わかった」アイリンは素直にうなずいた。「でも、だいじょうぶだよ。だって、私、フェイミンから、シアン様がちゃんと勉強してるか見張っててっていわれてるもの。だから、シアン様、ちゃんと勉強してね。そうじゃないと、フェイミンにいいつけちゃうから」
アイリンにとって、武学院は巨大な遊園地だった。校舎の中は静まり返っている。授業中なのだ。だから、静まり返っているとはいっても、授業をやっている教室の前を通れば、講義の声が漏れてくるし、広い運動場では生徒たちが何かをやっていた。この時間に校舎の中で会う人間といえば、ほとんどアイリンと同じ書類上の従卒たちばかりだった。彼女…あるいは彼…たちは、その主人が授業を受けている間、教室にも入れず、暇をつぶすことに熱意を注ぎ込んでいた。そのもっとも忠実な者たちは寮で家事をやっていたし、校内の花壇に水をやっている娘もいた。ただし、その花壇がもともと学校のものなのか、彼女が勝手に作ったものかはわからなかった。図書館にはかなりの数の女性たちが集まって、何かの会を開いていたし、食堂はあまり淑やかとはいえない少女たちの溜まり場になっていた。そして、そのもっとも怠惰な者たちは、アイリンの目にとまることなく、寮で睡眠中だった。
アイリンはあちらこちらを探索した後、運動場の片隅にたむろしている従卒たちの端に座って、いっしょに授業を見学した。それは専門用語では実技戦闘演習と呼ばれていた。一見ただのチャンバラごっこに見えなくもないが、生徒たちの立ち位置が軍団の戦闘配置をなぞらえていることと、複雑なルールに従って競技を進めていく点で、チャンバラごっこよりははるかに実際の会戦に近かった。もっとも、アイリンの目には、さんさんと降り注ぐ陽光の中で、振り上げられるたびにきらきらと輝く剣先が踊っている姿が、なんとなく楽しそうだというくらいしか分からない。
黄色い声で声援を送っている者もいたが、アイリンは静かに座っていた。シアンがその中にいれば、もちろん彼女も応援していただろう。
昼が近づくと、アイリンは食堂の方から、かすかにいい匂いが漂ってくるのに気づいた。アイリンはぱっと立ちあがると、短いスカートについた泥を払い落として、軽いステップで駆け出した。食堂で、シアンといっしょに昼食をする約束をしているのだ。
「君!」
食堂と校舎を繋いでいる渡り廊下まで来たところで、アイリンは背後から声をかけられて振り返った。
「やっぱりそうだ。アイリン、私だ。覚えているかい?」
アイリンは彼女を見上げ、目をぱちくりさせていった。
「ファンリーお姉ちゃん?」
ファンリーはいつも通りの、男物の軍服だった。だが、磨きぬかれた硬質のダイヤモンドのような相貌が、今日に限っては柔和にほころんでいた。彼女はアイリンの前に片膝をついて視線の高さを合わせるといった。「アイリン、ずいぶん君を探した。こんなところで会えるとは思ってもみなかった。今は例のお兄ちゃんのところにいるのか?」
「うん!」
アイリンはちょっと得意そうにうなずいた。
「そうか…」
ファンリーの表情はアイリンとは対照的に曇った。
アイリンは突然、視線を動かすと、手を挙げて大きく振った。
「シアン様!」
ファンリーの肩がびくりと動いた。彼女は立ち上がって振り向き、校舎からこちらへやってくるシアンの姿を、何を考えているか分からない瞳で追った。シアンが愛想よくアイリンに声をかけ、二人がなれなれしくハイタッチを交わすのを見た。
シアンがしゃべっていた。
「ファンリー、この子はメイ・アイリン、私の…その、赤い貴婦人です」
「知っているよ…」
ファンリーの艶のある唇の端が歪んで、刻薄そうな笑みを作った。彼女は低い声でいった。
「…教えてやろう。私はアイリンの求婚者の一人だった。だから彼女のことはよく知っている。そして君が…」
彼女は感情の高まりを押さえるかのように、一度言葉を切った。それから彼女は、シアンに鋭い視線を向けて続けた。
「…アイリンは私の紅玉になるはずだった。君さえいなければな。だが、そうはならなかった。私は君をうらんでもいいだろう?」
最後の方は危険な刃を秘めたような、甘ったるい口調になった。その間、シアンの表情も、険しくなっている。彼は固い口調で聞き返した。
「ファンリー、何がいいたいんです?」
「簡単なことだ」
ファンリーは教え諭すようにいった。
「…私は君に決闘を申し込む。君は死ぬだろう」
そして彼女は、喉の奥で小さな笑い声を上げた。
28 士官学校/決闘
顔から血の気が退いていくのが分かった。シアンは吐き気をこらえ、パニックに陥る寸前で踏みとどまっている自分を自覚した。すべてが非現実的だった。今や彼を現実に繋ぎ止めているのは、彼の軍服の端をぎゅっと握り締めて、不安そうに彼とファンリーの間に視線をさまよわせているアイリンの小さな手だけだった。決闘だって!?
決闘自体は珍しいことではなかった。毎年、シーアンのどこかで何件か決闘騒ぎがあり、だいたい同じ数の人死にがでる。大勢の野次馬が集まるのが普通だが、彼は見に行きたいと思ったことすらなかった。彼は血を見るのが嫌いだったし、人が死ぬのはなおさらだった。
だが、ファンリーはそれを要求している。不自然な微笑みさえ浮かべて。もし、決闘に応じれば、彼女か、自分か、どちらかが死ぬのだ。
人が集まり始めていた。彼は悪夢を振り払うように頭を振ったが、ぞっとするような感じは消えなかった。彼はようやくいった。
「いったい何のために?」
「人の話はよく聞くものだ、シアン君」
ファンリーが演技じみた気取った笑みを浮かべると、端正な顔がひどく刻薄そうな表情になった。彼女は見下したようすでいった。
「…君と私はライバルだったのだよ。だが、アイリンは君を選んだ。私は負けた。金も、権力も、この美貌も、何の役にも立たなかった。奴隷協会がある限り、それはやむをえまい。選択権は常に奴隷にある。アイリンが奴隷でさえなければ、君に勝ち目などなかったのにね。それはもういい。終わったことだ。
だが、私はその恨みを忘れなかった。アイリンは手に入らなかったが、恨みは晴らすことができる。そうだ! 君は死なねばならない!」
シアンは彼女の気迫にたじろいだ。
「たった、それだけのために?」
「たった…ではない。私にとっては重要なことだ」
「しかし、そんなことでは決闘許可はおりない」
ファンリーは始めてリラックスした笑みを浮かべた。
「私が誰なのか忘れたのか、シアン君? 許可は下りる。決闘は、明日の夕方六時。時間に遅れるな」
そして彼女は、シアンに反論の隙を与える間もなく、背を向けて立ち去った。
シアンは寮の自分の部屋へ戻ってくると、テーブルの前で立ち止まった。テーブルに用はなかった。障害物があったので立ち止まっただけで、そこにテーブルがなければ、もっと歩きつづけていただろう。「…お兄ちゃん」
ずっと彼の服をつかみつづけていたアイリンが、心配そうな声でいった。彼はのろのろと首を動かし、彼女を見つめた。
アイリンは普通、彼のことをシアン様とかご主人様とか呼ぶ。それが、赤い貴婦人という、彼女の地位と特権をあらわすものだからだ。その呼び方には、彼女なりの「カッコよさ」が含まれていた。「お兄ちゃん」などという呼び方は、粋で垢抜けた女には似合わないと思っているのだろう。
だが、それでもシアンは彼女にとっては「お兄ちゃん」であり、何か慌てたときや、ベッドの中で前後の見境がつかなくなったときに、その言葉が出てくる。シアンは彼女が見かけ以上に動揺していることに気づき、我に返った。
彼は女性の視線さえ意識していれば、どんなときにも微笑むことができた。
「なんだい、アイリン。心配することなんてないさ。私はこう見えても剣の腕が立つのは知ってるだろう? 私に勝てるのは父上だけなんだよ」
それから彼は、膝をついて視線を合わせ、にこやかな笑みを作って、彼女の頭をくしゃくしゃにした。
「心配はいらないよ」
「う、うん…」
アイリンは納得したようには見えなかった。アイリンが馬鹿でないことは、シアンがよく知っていた。頭のいい子だ。シアンの見え透いた詭弁に気づかないはずがない。たとえ彼が自称するほど強かったとしても、負ける可能性は何割かあり、勝ったとしても必ずしも赤の他人とはいえないファンリーが死ぬことになるのだ。
そのとき突然ドアが開き、ランシーがちょっと顔を貸せとでもいうように、指で差し招いた。
シアンは一人で外に出た。ランシーが隣の自分の部屋に入っていくのを追って、中に入る。
ドアが閉まると、彼女はくるりと振り向き…長い髪がふわりと広がり、シアンはそれに一瞬見とれた…食いつくようにしていった。
「聞いたぜ、ファンリーと決闘だって? 正気か?」
シアンはたちまち困惑した表情になった。
「それは、ファンリーに質問して欲しい問題だな」
「勝つ自信があるのか?」
彼はため息をつき、彼女から視線を逸らした。ランシーは彼に近づき、肩に手をかけて、その横顔をのぞき込んだ。いつも陽気そうな顔に、愁いの色が浮かんでいる。彼女は追い討ちをかけるようにいった。
「ないんだな?」
シアンは拗ねた子供のような瞳で、幼なじみを見返した。
「ランシー、相手は女の子なんだ」
「それがどうした?」
「女の子に剣を向けるだなんて、考えただけでも、気分が悪くなる」
ランシーの形のいい眉が上がった。彼女は突然、腕を突き出し、シアンの肩を壁に押しつけた。
「おい、シアン、逃げよう! 俺もいっしょに逃げてやる。リーチアと、アイリンと、それからフェイミンも連れて」
「逃げる?」
シアンはびっくりした顔で、彼女の顔をまじまじと見返した。
「そうだ」とランシーは答えた。「シーアンから逃げ出せば、ファンリーもわざわざ追ってはこない」
「しかし…」シアンはためらった。
「しかしも、かかしもあるか! お前が死んでも、ファンリーが死んでも、喜ぶ奴は一人もいないんだ」
「私が死ねば、ファンリーが喜ぶよ」
「俺のいうことに、いちいちケチをつけるな!」
シアンは自分を押さえつけている、ランシーの手首をつかむと、そっと下に降ろした。
「ねえ、ランシー。うれしいけど、それは何の解決にもならないよ。残された奴隷たちはどうする? 父上たちの立場はどうなるんだい? それに、君は軍人になれなくなってしまうよ。私だってそうだ。外に領地があるならともかく、いつまでも逃げ切れるものじゃない」
「それじゃ、どうするんだ?」
「私も、ファンリーも、死なずにすむ方法が一つだけある」
「俺をごまかすつもりか? いいかげんなことをいうと殴るぞ」
「嘘じゃない。引き分けに持ち込めば、二人とも助かる。難しいけど、やってみるよ。もし失敗したら、そのときはしょうがない。ファンリーを斬る」
「本気か?」
「本気さ」
ランシーはしばらくの間、真剣な表情で、じっとシアンの顔を見つめていたが、やがて彼の手をつかんで、寝室の方へ連れていった。シアンは突然服を脱ぎ始めたランシーのしなやかな肢体を、顔を赤らめながらも、目をそらさずに見つめた。
「ちょっと、ランシー、何のつもりだい?」
ランシーは面白くもなさそうな顔で、頭ごなしに命令した。
「お前も脱げ」
ランシーは全裸になると、まだ服を脱いでいないシアンを、かまわずにベッドの上に引きずり倒した。彼女は自分の上に覆い被さったシアンの瞳をのぞき込むようにしていった。
「お前はもう死んだも同然だ。だから、最後に抱かれてやる。ありがたく思え」
「しかし、ランシー…」シアンは躊躇した。
「なんだ? 何か不満でもあるのか?」
「いや、そうじゃなくて…」
「はっきりしろ、男だろ?」
「えーと、その…」彼は顔を赤くしてようやくいった。「避妊は?」
こういうときは、前もって魔法使いの侍女に、避妊魔法をかけてもらっておくものだ。だが、ランシーは寮に侍女を連れてきていなかった。相手が女性ばかりでは、その必要もなかったのだ。少なくとも、これまでは。
「いらねぇよ」彼女はぶっきらぼうに答えた。
驚いたように自分を見つめているシアンを見返して、彼女は自分に言い聞かせるようにいった。
「いいか、シアン。お前は明日死ぬ。あんなやり方で、助かるわけがない。お前は消えてなくなるんだ。なあ、シアン。俺たち、親友だよな」
「うん…」
ランシーはシアンのうなずきも聞こえなかったかのように続けた。
「だから、お前の子供が産まれたら、お前みたいないい男に育ててやる。女だったら、俺みたいないい女にしてやる。アイリンの面倒も俺に任せておけ。そうだ、それから…フェイミンも…」
彼女の震える声が途切れ、子供のような泣き声がそれに取って代わった。
リーシュンは一人で待っていた。武学院の寮の中でも最上階にあるファンリーの部屋。庶民にとっても特に広くはなく、貴族にとっては部屋と呼ぶのさえおこがましい。武学院に多数在籍する貴族たちが、このようなウサギ小屋で我慢できるのは、彼らが真の貴族ではなく、結局はただの軍人だからだった。だが、そんなところでも、今のリーシュンにとっては十分すぎるほど広く見えた。ファンリーがまだ戻ってこない。テーブルの上の食事は、むなしく冷めていくばかりだった。
いっそのこと魔法灯もすべて消して、真っ暗にしてしまおうかしらと、自虐的な考えが頭を占め始めた頃、ファンリーがようやく戻ってきた。
「おかえりなさいませ」
うなだれた表情で出迎えたリーシュンに対して、ファンリーはエネルギーのみなぎった、高揚した表情で部屋に入ってきた。
「リーシュン、食事は? ああ、待っていてくれたのか、いい子だ」
彼女は軍服を脱ぎ捨てると、男性的な荒々しい動作で、椅子に腰を下ろし、脚を組んだ。ポケットから紙切れを取り出して広げ、熱心に目を通す。
それが決闘許可証だった。決闘する人間、決闘の理由、派遣される審判官、審判官が立ち会えない場合の副審判官、決闘開始時刻、勝敗の条件、使用される武器の種類、その貸し出し許可…等々の事項が事細かに記されている。これがなければ、神聖な決闘も単なる私闘にすぎなくなるのだ。
「ずいぶん手間がかかってしまった。伯父上の名前を出しても、なかなか判子をくれなくてね。もし、私に何かあったら、自分の首が飛ぶというんだ。しょうがないから、ひさしぶりに伯父上に会ってきたよ。そうしたら、今度は伯父上を説得するのに…」
ファンリーは一気にそこまでまくし立てたが、突然リーシュンが自分ほど嬉しがってはいないことに気づいて言葉を切った。
「…どうした、リーシュン? なぜ、そんな顔をしている?」
リーシュンは椅子のかたわらにひざまずいて、潤んだ瞳でファンリーを見上げた。
「どうしても、決闘をおやりになるのですか?」
ファンリーはまじまじと彼女を見つめ返し、それから合点がいったとでもいうように「ああ」と言葉をもらした。
「そうか、君はシアン君のファンだったな。彼が死ぬのはいやか…」
「いいえ」とリーシュンは首を振った。「ファンリー様にもしものことがあったら、私…」
「立て、リーシュン!」
彼女がのろのろと立ち上がると、ファンリーはおもむろに彼女の細い腰を掻き抱いて、その唇を奪った。ファンリーは熱っぽい口調で語り掛けた。
「私がシアン君に負けるなどと、本気で思っているのか? 女だから? 私は子供の頃から兵法一筋でやってきた。それは君も知っているはずだ。私は戦うために産まれてきた女だ」
リーシュンは苦しそうに喘いだ。ファンリーの手が、彼女の胸をまさぐり始めていた。ファンリーはそれを意に介した風もなく続けた。
「君はシアン君を買いかぶっている。私は彼と剣を交えたことがある。私が手加減して、どうにか互角という程度にすぎない。ベッドの中ならともかく、顔がいいだけの青二才が、私に勝てるわけがない。そうだろう? そうだと言え!」
リーシュンはファンリーの乱暴な愛撫に、身悶えして哀願した。
「申し訳ありません、ファンリー様、お許しを…お許し下さい…」
ファンリーは彼女の哀れっぽい声で、自分が少々やりすぎたことに気づいたのか、ばつが悪そうな表情になって、彼女を抱きしめた。リーシュンはしばらくの間、ファンリーの胸に顔をうずめて泣いていたが、やがて、おずおずといった調子でたずねた。
「…ファンリー様、あの…あの子供がそんなに大切なのですか?」
「ああ」
ファンリーが彼女の髪を撫でながら静かに答えると、腕の中で彼女がびくりと身を固くするのが分かった。リーシュンはさらに、恐る恐るいった。
「…私よりも…ですか?」
「やきもちだな…」
ファンリーは口元に薄い笑みを浮かべていった。
「リーシュン、よく聞け。正直なところ、君とアイリンを比べることはできない。君たちにはまったく共通点がないからな。君は私にとって大切な存在だよ。幼い頃からずっと私につくしてきてくれた。私も、君がそばにいてくれると、心が安らぐ。だが、アイリンは別だ。君は彼女と話したことがないから分かるまい。彼女の年齢も、性別も、全然問題ではないのだよ…」
それからファンリーは、少し首を傾げて言葉を探していたが、やがて、瞳を輝かせて話しを続けた。
「…そうだ、彼女には未来がある。彼女は私に未来を運んできてくれる。なぜだろうな? 彼女と一緒にいると、なんだか未来が見えるような気がするんだ」
かつては、美しい紅玉をめぐって、男たちが殺しあった時代もあった。赤い貴婦人として、そういった歴史を塗り変えるような華々しい存在になるのが、アイリンの夢のひとつだった。そして今、彼女をめぐって二人の男女が殺し合おうとしている。アイリンは、歴史に名を残した赤い貴婦人たちが、それほど幸福なわけではなかったのだと、初めて気づいた。
午後六時、太陽はそのまぶしい輝きを徐々に失いながら、ゆっくりと西の地平へ近づきつつあった。
審判官はすでに到着しており、シアンは準備を万端整えて、所定の位置に立っていた。審判官の近くには、もったいぶった彼のお供たちが群れ、そこからだいぶ離れたこちら側には、生徒たちを中心とした野次馬が集まっている。
寮を出てから、アイリンはシアンと口をきいていなかった。激励すればいいのか、それとも引き止めればいいのか、どうすればいいか分からなかった。それでアイリンは、ずっと緊張感で毛を逆立てているかのような感じのランシーに、ずっと引っ付いていた。
やがて、寮の方から侍女とその他の取り巻きを連れたファンリーが歩いてくるのが見えた。アイリンは胸が詰まるような感じにおそわれて、ランシーの手をぎゅっと握った。ランシーも同じことを思ったのか、彼女の小さな手を痛くなるほど握り返してきた。
「待たせたな、シアン君」ファンリーは不敵な笑みを浮かべて声をかけた。シアンもまだ微笑みを返す余裕があった。しかし、声に出しては何もいわなかった。
審判官が決闘の開始を告げる儀式を行い、運んできた決闘用の剣を、箱から慎重に取り出した。剣に傷や細工がないかを調べ、順々にファンリーとシアンに手渡す。そして、決闘開始の銅鑼が打ち鳴らされた。
決闘は始まった直後から、激しい斬撃の応酬になった。不愉快な金属音が連続し、まるで魔法剣でも使っているかのように、はっきりと見える火花があたりに飛び散った。シアンの顔からも、ファンリーの顔からも、当初の余裕の表情は完全に消え去っていた。どちらもが、相手の実力を見誤っていたことを知った。
ファンリーはその傲慢さから、自分の手加減した実力と、シアンの実力が同等だと計算していた。また、シアンはこれまで女性に対して本気で剣を振るったことがなかった。すなわち、彼自身の手を抜いた状態の力と、ファンリーの実力が同等だと計算していた。そのどちらもが間違っていた。
シアンはほとんど本能に任せてファンリーの斬撃をかわしながら、必死で自分も殺されず、またファンリーも死なずにすむ方法を考え続けていた。
突然、観衆からどよめきが上がった。一瞬、シアンもファンリーも何が起こったのか分からなかった。キンという甲高い金属音は、その後から二人の耳に届いた。シアンは呆然とした。彼の剣が半ばから真っ二つに折れたのだ。
この程度の応酬で、剣が折れるわけはない。彼は天啓を受けたように、瞬時にして理解した。シアンがすばやく審判官に視線を投げかけると、相手は視線をそらした。彼は確信した。ファンリーは知らなかったかもしれないが、おそらく衛将軍から直々に圧力がかかったのだろう、シアンの剣は、審判官の手によって、折れやすいように細工されていたのだ!
ファンリーは驚きから立ち直ると、口元を笑みの形に歪ませて、シアンに斬りかかった。シアンはそれを短くなった剣で、なんとか受け止めた。
勝敗は明らかに見えたが、シアンの口元にも笑みが浮かんだ。
剣だ! 彼はこれまでの一生で、これほどうれしい発見をしたことはなかったように感じた。剣がすべての元凶だった。剣さえなければ、死ぬの殺すのといった物騒なことにはならないではないか?
彼は剣を捨てた。
「どういうつもりだ、シアン君」
ファンリーが肩で息をしながら、不機嫌そうにいった。
「女性に剣を向けるなんて無粋だからね」
彼の気障ったらしい台詞も、この場では通用しなかった。ファンリーは答える代わりに、剣を振り上げて必殺の斬撃を放った。
シアンの肩に激痛が走った。が、それは急所を外れている。シアンは斬撃のために伸び切ったファンリーの腕をつかみ、その勢いを利用して、急激なひねりを加えながら彼女を投げ飛ばした。骨の折れる嫌な音がはっきりと聞こえ、次の瞬間地面に叩き付けられた彼女が悲鳴を上げた。
あたりは、喚声が上がるどころか、死の静寂に包まれた。その静けさの中に、腕を押さえたファンリーの呻き声だけが小さく響いていた。ファンリーが負傷するという予想は誰もしていなかったのは明らかだった。
シアンもまた肩口を押さえて、うずくまっていた。傷はそれほど深くはなさそうだったが、赤い血が指の間からあふれ出ていた。彼は痛みと血を見たショックで今にも倒れそうだったが、気力を奮い起こして審判官の方をにらみつけた。
「審判官! 両者戦闘不能により、引き分けだ!」
審判官がかすれた声で、決闘の終了を宣言すると、アイリンとランシーが飛ぶようにして駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん!」
「シアン、だいじょうぶか?」
シアンは心配そうな顔の二人を見上げると、にやりと笑っていった。
「アイリン、いった通りだろう? 私は父上以外には負けないのさ」
そして彼は気を失った。
ファンリーは覚醒前の心地よい眠りの中を漂っていた。華奢でやわらかな娘たち、固く雄々しい男たち、そしてリー・シアンの少し子供っぽいハンサムな笑顔、最後に、しっとりと濡れた感じのリーシュンの肌触りが、彼女の神経を刺激し、そして夢がはじけた。「ファンリー様!」
まっさきに視界に飛び込んできたのは、リーシュンの見慣れた顔だった。ファンリーがぼんやりと見つめている間に、その瞳から涙があふれ、頬をつたってぽたぽたとこぼれ落ちる。ファンリーはその様子を、面白いと思いながらながめていたが、やがてぽつりといった。
「どうやら病院のようだな」
ファンリーは自分の置かれた状況を把握しようと、首を動かしかけて、突然走った激痛にうめいた。彼女は全身を引きつらせながら、何とか声を出した。
「私の…私の腕はどうなった!?」
「ファンリー様、腕はあります。だいじょうぶです。落ち着いて、落ち着いてください」
ファンリーは大きく息をしながら、視線だけをリーシュンに向けた。
「折れたのか? 私の腕は?」
「安静にしていれば、一ヶ月で直るだろうと、お医者様がおっしゃっていました」
「そうか…」
ファンリーは気が抜けたように目を閉じた。それから、彼女は自嘲的な笑みを浮かべた。
「…結局、私はとんだ道化師だったわけだな。アイリンにふられ、シアン君には負け…そういえばシアン君はどうした? あのとき、確かに手ごたえがあった。まさか、死んだのではあるまいな?」
「シアン様は全治二週間だそうです。静養のために、シーアンの屋敷にお戻りになりました」
「そうか…では、やはり私の負けだな」
「ファンリー様…」
どういって慰めていいか分からないという表情のリーシュンに、ファンリーはおだやかに微笑んだ。
「リーシュン、そんな顔をしなくてもいい。恥を晒してしまったが、シアン君が無事だったのは不幸中の幸いだ。彼はいい男だよ。私を素手で倒すとはな」
彼女は喉の奥でおかしそうに笑った。
「殺すより生かしておいた方がいい。だが、これで私の評判も台無しだな。それに、彼に嫌われてしまったかと思うと、残念だ」
ファンリーがため息をつくと、リーシュンは彼女の折れていない方の手を取って訴えた。
「ファンリー様、私がいます。たとえ、ファンリー様が一人ぼっちになっても、私はファンリー様のおそばを離れません」
「リーシュン…気持ちはうれしいが、無理なことをいうものではないよ。前にもいったろう? 君もいずれ結婚して、私のもとを去っていく」
だが、リーシュンは子供がいやいやをするように、大きくかぶりを振った。その瞳からは、再び涙があふれ始めていた。
「いいえ! いいえ、ファンリー様。私、一生結婚はしないと決めました。私はずっとファンリー様のそばにいます」
ファンリーは何か新種の動物でも見るような、不思議そうな表情で彼女を見つめ、やがて手をのばして、その頬に振れた。
「リーシュン、それは私への愛の告白なのかな?」
リーシュンがはにかんでうなずくと、ファンリーはそっと彼女の顎を引き寄せた。やがて、二人の唇が静かに重なった。
29 キタイの反乱/百鬼将軍とチーリンの花
「いい街じゃないか」百鬼将軍リー・チェタンは、大股で歩きながら、気軽に従卒に話しかけた。ここ、チーリンの街は、戦時下にあるというのに、そこそこの人出でにぎわっていた。チェタンはシーアン育ちであるだけに、こういった都会的な雰囲気が好きだった。
人出の中にはかなりの数の兵隊が混ざっていた。今、チーリンには、キタイ人の襲来に備えて、猛虎将軍シェン・パオロンとチェタンの率いる二万五千余りの兵力が駐屯している。チーリンの賑わいの半分は、彼らが落としていく金のためだった。
チェタンが歩いていくのは、チーリンのもっとも華やかな通りである花街だった。きらびやかな妓楼が立ち並び、美しい妓女たちが、欄干から艶かしい仕種で手を振ったり、派手な魔法を飛ばしてきたりする。
チェタンは二階から桜の花びらを降らせている妓楼の前で足を止めた。花びらだと思って、すくってみると、手のひらをすり抜けていってしまい、初めてそれが魔法だと分かった。
「夏に桜が咲くわけがないか」
チェタンはにやりと笑うと従卒にいった。
「今日はここにしよう。お前も入れ。今日は私のおごりだ」
「自分もでありますか?」
従卒が驚いて聞き返したが、チェタンは「嫌ならそこで待っていろ」といって、さっさと中へ入っていってしまった。従卒は慌てて後を追った。
チェタンの顔を見た女将…彼はひそかに五年前に出会いたかったなと値踏みした…が、はっとしたようすでたずねた。
「あらまあ、もしや、百鬼将軍様じゃございませんか?」
チェタンは気さくな笑みを浮かべていった。
「確かにそうだが、余計な気遣いは無しにしてもらおう。こんな場所で、将軍だの兵隊だのといった区別は無粋というものだ。男と女、それだけでいいと思っているのだけどね」
女将は彼の台詞に感銘を受けたらしかった。彼女ははしゃいだ様子で、彼を案内した。
「まあ、もちろんそうでございましょうとも。さすが、都から来た方は、ちがいますなあ。ささ、こちらへどうぞ。将軍様には最高の娘を用意させていただきます。お連れの方はこちらへ」
それから彼女は、奥に向かって声を上げた。
「誰か、リューを呼んできておくれ。百鬼将軍様のおなりだよ」
チェタンが部屋に入ると、すぐに小女が膳を運んできた。彼は部屋の中を見回した。田舎の妓楼とも思えないほどに、洒落た感じが心地よかった。窓からは、向かいの妓楼の二階の欄干が見え、そこにしなだれかかった妓女が、チェタンに気づいたのか、誘うように手を振ってきた。チェタンは挨拶代わりに片目をつぶってみせた。
やがて、ドアがするすると開いたので、彼はようやくお出ましかと思い、そちらに視線を向けた。
豪奢なドレスを着た少女が、少しアンニュイな表情で、彼を見下ろしていた。金色の模様の入った帯が、裾に纏わりつくようにして、足元まで伸びている。彼は思わず口をすべらせた。
「子供じゃないか」
その瞬間、少女の妓女らしいアンニュイな表情が消し飛び、全身に年齢相応の元気のよさがみなぎった。
「チーリン一の美女がいらないっていうんなら、帰っておくれ!」
チェタンは口元をほころばせてつぶやいた。
「これはまた威勢のいい娘だな」
彼は立ち上がると、うやうやしく彼女の手を取って、甲に口付けした。
「私は百鬼将軍リー・チェタン。失礼なことをいって、申し訳なかった」
少女の顔に、少し意外そうな表情が浮かんだ。
「へぇ、あんた将軍様なのに、あたいみたいな女に謝るんだ」
「美しい女性を崇拝するのに、将軍も一兵卒もないのさ」
「あたいをきれいだっていってくれるのかい?」
「もちろんだとも」
少女は今度は見間違えようのない、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「あたいはチャオリン・リュー、あんたには一番のサービスをしてあげるよ」
「チャオリンというのは、また、変わった名前だな」「母さんがキタイ人だからね」
「ほう」チェタンは相づちを打ったものの、その話題は迂回することにした。「…歳は?」
「十八だよ」
なんだ、シアンと同じじゃないか。チェタンは思ったが、不都合を申し立てようとはしなかった。美人に歳の上下は関係あるまい。
リューは手に持った月琴をいじっていたが、少しいらついたようすでいった。
「…それより、少し黙っていておくれでないかい? こいつを弾くには、集中力がいるんだから」
彼女は額にしわでもよりそうな難しそうな顔をして、弦の調律をしていたが、やがて、おもむろに指を弾き始めた。たちまち、部屋の中は彼女の紡ぎ出す音楽世界にひたされた。
チェタンはひそかに笑みを浮かべた。これならシアンの胡笛の方がもう少しマシだぞと思ったからだ。流れ出る旋律よりも、むしろ演奏している彼女の姿の方が美しかった。半ば眠ったように目をつぶり、弦から弦へとなめらかに動き回る細い指が、奇妙なほどにエロティックな風情を醸し出している。
演奏が終わると、リューは作法通りに一礼し、それからちょっと舌を出した。
「ごめんよ。将軍様に聞かせるのに、あんまり上手じゃなくて」
「いや、なかなか楽しませてもらった。ただ、私も少しくらい音楽をやっていればよかったと思ったがね」
「なぜだい?」
彼は苦笑いを浮かべて答えた。
「実は、こうやってじっと人の演奏を聞いているのは、あんまり得意じゃないんだ。いっしょに演奏できれば、それにこしたことはない」
「へぇ、将軍様っていうくらいだから、どっしり座っているのは得意そうなもんだけどね」
「軍人は本来活動的なものさ。それよりどうかな、私に分かるような曲を弾いてくれないかな。歌付きのやつがいい」
「そうだねえ」
彼女はちょっと考えていたが「それじゃ、これはどうだい」といって、おもむろに弾き始めた。タン・パイレンの花咲ける乙女だった。
チェタンは小さくうなずいた。誰でも知っている曲だったからだ。そして彼は、突然、朗々たる声で歌い出した。彼女は少し驚いたような顔をしたが、楽しそうな笑みを浮かべると、演奏に没頭した。
曲が終わると、リューは頬を上気させてうっとりといった。
「いい声してるね」
「誉められると照れるな」
チェタンのはにかんだ様子に、リューはくすりと笑った。彼女は月琴を置いて立ち上がると、チェタンの横にはべった。彼女は上目遣いの訓練されたポーズで彼を見上げた。
「お酌してあげようか? それとも…」
彼の手が腰に回され、帯の結び目をするするとほどいた。彼女は逆らわずに、彼の胸に頭を預けた。彼女はちょっとうっとりしたようにいった。
「将軍様なんだから、きっとあっちの方もお強いんだろうね」
「さあ、それはどうかな」
やがて彼の少しひんやりとした手が、大きく開いた胸元から入ってきた。彼女は身じろぎした。
「あんっ、くすぐったいじゃないか」
「じっとしていろ」彼のおだやかな声が頭の上で聞こえた。「調べているんだから」
「何をだい?」
「ふむ…大きさとか、形とか、肌触りとかだな」
「果物じゃないんだよ」
「似たようなものさ、これから食べるんだから」
「あんた、おかしな人だね」
リューはくすくす笑った。
その間にも、チェタンの大きな手が、彼女の胸を揉みしだくでもなく、包み込むようにして撫で回している。彼女がくすぐったさに耐え兼ねて身をよじるたびに、帯の取れたドレスが乱れて、しだいにあられもない姿になり始めていた。
「それで、あたいの生り具合はどうなんだい?」
「小ぶりだが形はいいな。食べごたえがありそうだ」
チェタンが大真面目に答えると、リューはおかしそうに笑った。
「あんた、スケベだね」
「男はみんな、そんなものだ」
「うそばっかり。あたいの前に出るだけで、カチコチになっちまうような、うぶな男だっているよ」
「それは、未熟者だからだな」
彼の手が腰のあたりへ伸びてくると、彼女は脚を崩してそれを受け入れた。しばらくの間、会話が止まり、彼女の悩ましげな喘ぎがその空白を満たした。やがて、彼女がぐったりとしなだれかかると、彼は気遣うような、からかうような口調でいった。
「もう、満足したか?」
リューは潤んだ瞳を上げて、挑戦的にいい返した。
「あたいを馬鹿にしてるのかい? このくらいじゃ帰してあげるわけにはいかないよ」
「よし、その調子だ」
「あっ…」
チェタンはにやりと笑うと、不意に彼女を軽々と抱え上げた。今や彼女にまとわりついているだけとなった衣服が、はらはらとこぼれ落ちたが、彼は意に介したようすもなく、隣の寝室に入っていった。
リューは切ないような、ほっとしたような、深いため息をついた。それからうつろな瞳を天井に向けたままつぶやいた。「女に生まれてよかったぁ…」
まだ、全身に燃え上がった炎の残り火は消えていなかった。彼女はしばらくの間、そのままぼうっとしていたが、頬杖をついてこちらを見ているチェタンに気づくと、赤くなって、剥き出しのままの胸に毛布を引き寄せた。
「いやだね、ずっと見てたのかい?」
「もちろん」チェタンは茶目っ気のある瞳でいった。「最初から最後まで、ずっとね」
彼女は何かいい返そうとしたが、天上の時間を懐かしむように、再びため息をついた。
「あんた、最高だったよ」
「それは光栄だな」チェタンはおだやかに答えた。
「…それに、やさしいんだね」
「美人にはやさしくするのが、私のモットーさ」
リューは彼の大きな手を取ると、頬に摺り寄せた。「…ねえ、将軍様」
「ん? まだ足りなかったかな?」
「あんっ、そんなんじゃないよ。それに、そんなにしたら、あたいが壊れちまうじゃないか」
「それじゃ、いったい何かな? なんでもいってみたまえ」
「あのね」リューは子供のような瞳で、チェタンを見上げた。「あんた、そんなにやさしいのに、どうして百鬼将軍なんておそろしげな綽名がついたんだい?」
「リュー、綽名ではなくて、皇帝陛下からいただいた称号なんだよ。こういう称号になったのは、そうだな…」
彼はちょっと首をひねって考えていたが、やがてごろりと仰向けになっていった。
「…私がおそろしげな人間だからだろうな」
30 キタイの反乱/百鬼将軍出撃
チェタンは女の膝に頭を乗せてくつろいでいた。窓の外には隣の妓楼の屋根と、澄み渡った青い空が見える。彼は女郎が口に放り込んでくれる菓子を噛み砕きながら、さりげなく聞いた。
「今日は、リューは休みだって?」
女は彼を見下ろして、意味ありげに微笑んだ。
「気になりますか?」
「なんだ? 私は何かおかしなことを聞いたか?」
「うわさになっていますよ。将軍様とチーリン一の美女。あら、お気にさわりましたか?」
チェタンはあごに手を当てて少し考えた。
「ふむ、悪い気はしないな」
「リューは古陵にいきました」
「古陵?」
「ほら、朱雀門から出て…」
彼は女の言葉をさえぎった。「ああ、場所は知っている」
「ピクニックですよ」
「ほう、のんきなものだな」
彼はしばらくすると、むくりと起き上がった。女が少し驚いたように声をかけた。
「あら、もうお帰りですか? もっとゆっくりしていらっしゃればよろしいのに」
「また別の機会にな」
チェタンは女の唇に荒々しい接吻をすると、大股で部屋を出ていった。
十分後、チェタンは司令部の前で馬を降り、駆け出してきた従卒に手綱を渡した。かつて小さな宿屋に過ぎなかったその建物は、それ以前の数倍の人の出入りで賑わっていた。もっとも、出入りする人数がすべて軍服を着ているのが以前とは違っている。彼が入っていくと、彼の友人であり、この街の司令官でもある猛虎将軍シェン・パオロンが顔を上げた。
「ずいぶん遅かったな。また、例の妓楼にでもいっていたか?」
チェタンは彼の冗談めいた挨拶の中に、緊張の色を読み取った。
「どうした? 何かあったのか?」
「敵が動いた」
チェタンの顔が引き締まった。彼は短くたずねた。
「迎撃は?」
「まだだ。敵の意図がつかめない」
チェタンは椅子に腰掛けると、腕を組んで作戦地図に目をやった。一番から四番まで番号がつけられた敵の砦に、すべて敵軍を表す赤い旗が立っていた。敵は動いたが、その後の動きはまだ不明なのだ。彼は副官を呼ぶと、直属部隊の編成を命じた。
やがて伝令が一人飛び込んできた。
「一番砦の敵軍、古陵南東から接近中!」
参謀が事務的に、地図上の旗を動かす。チェタンは突然立ち上がった。
「どうした、チェタン?」といぶかしむパオロンを無視して、外に出る。彼はそのまま馬に飛び乗って駆け出した。
チェタンは朱雀門前の広場までやってくると手綱を引いて馬を止めた。あたりは兵馬の群れでごった返していた。彼が召集した直属部隊が集結しつつあるのだ。彼を認めた副官が駆け寄ってきて敬礼した。
「部隊集結まであと三十分ほどかかります」
「半個連隊はそろっているな」
チェタンは大雑把に見積もっていった。副官に編成を命じたのは、彼の軍団に十五個ある連隊のひとつに支援兵力を加えた増強連隊だった。が、今この場にいるのはその半分の八百人程度の兵力に過ぎない。だが彼はいった。
「直ちに出撃する。残り半数は、集結し次第、後に続け」
チェタンの指揮する直属隊は、朱雀門を出て街道を南下した。途中で脇道に入り、東へと向かう。あたりは小さな畑と、林の連なりで、やがて目指す古陵が見えてきた。彼は全軍に停止を命じた。
古陵はかつてこのあたりに栄えていた王国の陵墓だった。今ではチーリンの人々の行楽地になっている。そして、今日は休みを取っているチャオリン・リューが、親しい妓女や小女たちと、ピクニックにきているはずだった。
チェタンはそのはっきりと盛り上がった丘のシルエットを眺めて、不意に苦笑いを浮かべた。彼は小さくつぶやいた。
「…どうもこれは本物らしいな」
彼は部隊をその場にとどめると、二人の兵士を連れて、丘に向かった。ふもとの売店の前を何食わぬ顔で通り過ぎ、中腹のベンチの脇をすり抜け、丘を取り巻いている遊歩道を軍靴で横切っていく。頂上に近づくと、彼は二人の兵士をその場に待たせ、匍匐全身で進み始めた。
二人の兵士は護衛ではなかった。一人は伝令、一人は魔道士である。そして、魔道士はこの場合、戦闘力を期待されているのではなかった。信号弾を上げるのがその主任務なのだ。偵察と戦闘はチェタンの領分だった。
頂上の休憩所のそばに近づくと、頭上から声が降ってきた。
「将軍様、何してるんだい?」
休憩所にはチャオリン・リューと、数人の娘たちがいた。
彼はちらりと彼女を見上げて、任務中であるにもかかわらず、内心「ほう」と感心した。一見けばけばしい感じの服装も、彼女が着ると、ひどく洗練されて豪奢な感じになるのは、才能としかいいようがなかった。ただ、弁当箱を手に持ち、口をもぐもぐさせているようすが、チーリン一の美女というイメージからは若干はずれていた。
チェタンは怪訝な表情のリューに、無愛想にいった。
「敵が近くまで来ている」
「敵!?」リューは驚いて思わず腰を浮かせた。「戦争がおっぱじまるっていうのかい? ここで?」
「あわてるな」彼は視線を前方に向けたままいった。「そのまま何事もなかったようにしていろ。私がいる限り、ここは安全だ」
彼はさらに前進して稜線の向こうを見渡す位置にまでくると、注意深く丘と林が続いている敵の砦の方向を観察した。
「いるな…」
彼はつぶやくと、敵の数を確認した。林に隠れながら接近してくるのは敵の偵察隊だろう。その後ろから、向こう側の丘の縁を迂回しつつ、敵本隊がやってくるのがかろうじて見えた。千から二千の連隊兵力。ざっとこちらの倍はいる。
彼は連れてきた兵士を呼ぶと、一人に指示を与えて、本隊に伝令に出した。
敵の偵察兵の一人が、安全だと判断したのか、林から姿をあらわした。馬を降りて、丘の斜面を登り始める。チェタンは舌打ちすると、立ち上がり、剣を抜き放ちながら駆け下りた。次の瞬間、敵兵の首が宙に舞った。背後で娘たちの悲鳴が上がるが、彼は無視した。別の敵兵が、騎乗のまま斜面を突撃してくるが、馬で駆け上がるには傾斜がやや急すぎた。むなしく落馬したところを、チェタンの剣で串刺しにされる。
その背後から三人目が襲いかかったが、チェタンの振り向きざまの一撃で腕が千切れ飛び、第二撃で心臓を貫かれて絶命した。
チェタンは死体の背中から突き出た剣を、無造作に引き抜いて、待機していた魔道士に向かって、大声で命じた。
「信号弾!」
赤、赤、青の信号弾が空に舞った。
あたりはたちまち、戦場のあわただしさに包まれた。敵もこちらに気づき、展開を始める。
チェタンはやってきた副官にいった。
「お前はここを死守しろ。女どもを守れ」
副官はちらりと休憩所に固まっておびえている娘たちを見ていった。
「後送いたしましょうか?」
「敵の方が数が多い。固まっている方が安全だ」
「了解しました」
「ただの一人も傷つけるな。女を守れない男に価値はない」
「存じております」
副官は意味ありげな笑みを浮かべた。チェタンの口癖なのだ。チェタンもにやりと笑い返すと、部隊を指揮するために、従卒が引いてきた馬に飛び乗った。
チェタンの主力は古陵の丘の上に陣取った。数の劣勢にもかかわらず、両翼を伸ばして、大兵力をよそおう。彼は敵の布陣を見渡して、馬鹿にしたように鼻で笑った。敵はこちらを警戒しているのか、密集体形だった。密集体形を破るには、包囲するか、あるいは、より強い力で正面から打ち破ればいい。彼は戦闘開始を命令した。非常識にも最前列、丘の斜面に配置された魔道士隊から、次々と火炎弾が水平発射される。オレンジ色に輝く光球が林の中に吸い込まれていくたびに、爆炎が上がり、突撃してきた敵兵の体が、ばらばらになって飛び散った。
遅れて敵の火炎弾が、頭上から降り注ぎ、味方の防御シールドに遮られて、花火のように四散した。続いて弩兵による一斉射撃。最後にチェタン率いる突撃隊が、勢いよく丘の斜面を駆け下りた。
あたりはたちまち修羅場となった。リューは休憩所から、ふるえながらも、その光景を眺めていた。チェタンの行くところ、敵兵の首が飛び、血飛沫が上がった。その鬼神のような働きは、遠くからでもはっきりと分かった。敵の先鋒はほとんど一瞬で崩壊した。
戦いが荒れ狂っていることを示す喚声や悲鳴は、次第に遠ざかった。娘たちはチェタンの残留部隊に守られたままだったが、戦闘の恐怖が遠のいていくにつれて、ぽつりぽつりと言葉を交わし始めた。話のほとんどは、チェタンがいかに鮮やかな戦いぶりを示したかで占められていた。話の種が尽きると、空気は急速にしらけたものへと変わった。リューはつまらなそうに休憩所の欄干から身を乗り出して、戦線が移動していった丘の向こうを見つめた。かすかに風に乗って、敵味方の喚声や火炎弾の爆発音が響いてくるような気もするが、どちらにせよ、それはもう遠い世界の話だった。
彼女は振り返ると、生真面目に戦闘態勢をとったままの副官に苦情を申し立てた。
「ねぇ、ちょっと兵隊さん。あたいたち、いつまでこうして待ってなきゃいけないんだい?」
副官は軍人らしい無個性な応対を返した。
「将軍閣下がお戻りになるまでです」
「お戻りになるって、いつお戻りになるのさ」
しばらくすると、再びあたりは騒然とし始めた。チーリンから部隊の残り半分が到着したのだ。これらの部隊は、チェタンを追って、さらに前進していった。
やがて、遠くで鉦が連打される音が聞こえ始めた。女たちは知らなかったが、それは戦闘終了を発令する退き鉦だった。味方の部隊が再びあたりに充満し始めた。その中から、黒い甲冑に身を固めたチェタンが、馬を器用にあやつって、丘を登ってくるのが見えた。リューは文句をいおうとして、瞳を見開いた。
「将軍様! 怪我でもしたのかい?」
チェタンは馬を飛び降りると、自分の体を見回してしまったという顔をした。伊達男で鳴らしている自分が、血糊をつけたまま女性の前に出てしまうというのは、明らかな失敗だった。彼は、少し不機嫌そうに答えた。
「ああ、心配はない」
「でも、血で真っ赤じゃないか」
「全部返り血なんだよ。リュー、これで分かっただろう」
「なにがだい?」
「私がなぜ、百鬼将軍と名付けられたのかということだ」