マヤ文明ミニ知識

質問

  1. 「マヤ」とは何か? 「マヤ」とは何を意味しているか?
  2. マヤ文明の時代区分はどうなっているか?
  3. マヤ文明各時代の代表的な遺跡は?
  4. 「マヤ文明」の特徴は?
  5. 古代マヤ人は何を食べていた?
  6. コパンとはどういう遺跡?
  7. コパンとはどういう意味?
  8. 古代マヤ人たちは、コパンのことをどのように呼んでいた?
  9. コパン遺跡の「アクロポリス」とは何?
  10. 10J-45とは、いったい何?
  11. ピラミッド一つ作るのに何日かかった?
  12. 古代の人口はどうやって計算する?

回答

1.「マヤ」とは何か? 「マヤ」とは何を意味しているか?

「マヤ」とはマヤ語という言語またはマヤ語を話す言語集団のことです。

ランダの「ユカタン事物記」を始めとする16世紀のスペイン人たちの記録や征服後に書かれた先住民の「チラム・バラムの書」などには、メキシコ・ユカタン半島北東部が「マヤ」と呼ばれる地であること、その地に住む人々が話す言葉が「マヤ」と呼ばれることが述べられていて、それはおそらく後古典期にこの地に存在した都市「マヤパン(おそらくナワ語で「マヤの旗印」という意味)」に起源を持っていると考えられます。つまり、「マヤ」という言葉の意味は不明ですが、「マヤ」とはマヤパンに住む人々が話していた「言語」または「言語集団」を示していたと考えられます。

 

2.マヤ文明の時代区分はどうなっているか?

「古典期」と呼ばれる時代を中心として、それに先立つ時代という意味で名付けられた「先古典期」、その後の時代という意味で名付けられた「後古典期」の3大時代区分を行うのが一般的です。

各時代を大まかに定義すると以下のようになります。

  • 「先古典期」とは、マヤ地域における土器を伴う初期定住村落の開始から、マヤ長期暦とマヤ文字が刻まれた記念碑が低地に出現するまでの時代です。
    (およそ紀元前1550年頃から紀元後250年頃まで;さらに前期、中期、後期に三分されます)
  • 「古典期」とは、そのような長期暦と石に刻まれたマヤ文字碑文が低地各地に広く普及し、中・南部低地を中心として数多くのセンター(都市)が繁栄した時代です。
    (およそ紀元後250年頃から900年頃まで;さらに前期、後期に二分されます)
  • 「後古典期」とは、それまで中・南部低地に栄えていた古典期のセンター群が次々と衰退し放棄された後、特に北部低地を中心として新たな政治形態のセンター群が栄えた時代です。
    (およそ紀元後900年頃から16世紀のスペイン人による征服まで;さらに前期、後期に二分されます)

現在までの知見では、「文明段階に到達した社会」がマヤ地域に出現したのは、紀元前400年頃のことです。言い換えれば、初期マヤ文明が興ったのは、先古典期と呼ばれる時代の紀元前400年頃ということになります。

 

3.マヤ文明各時代の代表的な遺跡は?

先古典期(紀元前1550年〜紀元後250年)の遺跡としては、高地から太平洋岸にかけての地域では、グァテマラのカミナルフュ、アバフ・タカリク、エル・サルバドルのチャルチュアパなどが有名です。低地の遺跡としては、グァテマラのエル・ミラドール、ナクベ、ベリーズのセロスがあります。ホンジュラスのコパンにも紀元前900年頃には、かなりの権力をもった首長がいたようです。

古典期(紀元後250〜900年)の遺跡としては、メキシコのカラクムルやパレンケ、グァテマラのティカル、キリグアー、ホンジュラスのコパンがユネスコの世界遺産に登録されている代表的な遺跡です。

古典期には、多いときで60〜70くらいの都市が各地に存在していました。エル・サルバドルのチャルチュアパ、ベリーズのカラコル、メキシコのヤシュチランといった都市も勢力を振るっていました。また、都市遺跡ではありませんが、エル・サルバドルのセレン(ホーヤ・デ・セレンと呼ばれることもあります)は、イタリアのポンペイのように、火山の大噴火により紀元後2世紀後半あるいは3世紀当時の農家や農地が火山灰の下に埋まってしまった遺跡で(ポンペイのように埋まった実年代が特定できないのは、文字記録がないことによります)、当時の人々の生活に関して貴重な情報を提供しています。このため、ユネスコにより世界遺産に登録されています。

後古典期(紀元後900〜1550年)の遺跡としては、メキシコのウシュマル、チチェン・イツァーが世界遺産に登録されています。この二つの都市は古典期の終わり頃から栄え始めました。この他、スペイン人たちがマヤ地域にやってくる前には、メキシコのマヤパン、グァテマラのイシムチェ、ウタトラン(クマルカフ)にマヤ人たちの王国が存在していました。

 

4.「マヤ文明」の特徴は?

マヤ文明は、エジプトや中国といった旧大陸のいわゆる「四大文明」とは異なる次のような特徴があります。

  • 青銅器や鉄器など金属器を持たない新石器時代の都市文明であった点。
    例えば、マヤ文明を代表する石造彫刻の逸品は、みな硬い石の道具で彫られたのです。
  • 牛や馬などの家畜を持たず、車輪の原理も実用化されなかった点。
    基本的に人力だけでピラミッドを建設したり、物品を担いで遠距離交易などをおこなったのです。
  • 地域全体を統一する王朝が生まれなかった点。
    マヤ地域では、全盛期である古典期には、多いときには60〜70の王国が各地に存在したのです。
  • いわゆる「大河」の周辺に興った文明ではない点。
    社会文化の成熟度が全盛期にあった古典期には、大河のない熱帯雨林を中心に数多くの都市が栄えたのです。
 

5.古代マヤ人は何を食べていた?

古代マヤ人の主食は、トウモロコシでした。低地では、「タマル」といってトウモロコシの粉を団子状にして食べていたようです。コパン周辺では、それに加えてすでに「トルティージャ」といって薄焼きのようにしても食べていたと考えられています。また、「アトール」と呼ばれるトウモロコシから作った飲み物も飲まれていたことが分かっています。この他、豆、かぼちゃ、トウガラシなども食卓を飾っていたようです。

 

6.コパンとはどういう遺跡?

コパンはホンジュラスの西部に位置し、マヤ古典期を代表する都市の一つです。海抜約600メートルの山あいの谷間にあり、近くをコパン川が流れています。これまでの考古学的な調査によって、紀元前1400年頃には、土器をともなう定住農耕民がこの谷間に住んでいたことがわかっています。

現在「ラス・セプルトゥーラス」と呼ばれている地区では、先古典期に属する特徴的な土器や豪華なヒスイの副葬品を伴う埋葬が発見されており、紀元前900年頃には谷間にはかなりの権力をもつ首長が存在したようです。

コパンにマヤ王朝が成立するのは、現在までの知見では、紀元後426年のことです。ヤシュ・クック・モと呼ばれる人物によって興されたこの王朝は、820年頃まで約400年間にわたり、16人の王によって支配されていました。王朝崩壊後、100年から150年くらいの間にこの谷間の人口は急激に減少し、紀元後1000年頃には、この谷間にはほとんど人が住まなくなりました。16世紀に初めてスペイン人がこの地に到達した時には、この古代都市は亜熱帯雨林の中で廃墟と化していたのです。

コパンは他のマヤ都市と比べて、残存するマヤ文字が一番多い、彫られた石造彫刻の数が一番多い、王朝の成立時から崩壊時まで約400年にわたるファサード装飾(建物正面を飾る装飾)の変遷を追うことができる、など、唯一無二の特徴を数多くもつ都市遺跡です。独特の高浮き彫り、丸彫りと呼ばれる様式の石造彫刻により、20世紀前半の著名なマヤ学者シルベイナス・モーレイは、コパンを「アメリカ大陸のアテネ」と呼びました。「グァテマラのティカルをニューヨークだとすれば、コパンはパリである」と形容する人もいます。

歴史上、メキシコのパレンケとホンジュラスのコパンは、数多いマヤ都市の中でも「一番美しい都市」という形容詞を競い合っていますが、この二つの都市は実は8世紀には姻戚関係にあったのです。

 

7.コパンとはどういう意味?

1576年、初めてこの地を訪れたスペイン人のディエゴ・ガルシーア・デ・パラシオは、「コパン」という村に遺跡があると報告しています。それ以来、この遺跡はコパンと呼ばれるようになりました。コパンの名前の由来に関しては、いくつか説があります。この近くを支配していた先住民の首長がコパンという名前であったとか、ナワ語で「橋」を意味するCOPANTLに由来する、などです。
いずれにせよ、「コパン」とは、現代人が呼んでいる名前であって古代マヤ人たちがこの都市をそのように呼んでいたわけではありません。

 

8.古代マヤ人たちは、コパンのことをどのように呼んでいた?

碑文学的な研究によれば、古代マヤ人たちは、コパンのことを「シュクXuk:「コーナー」、「かど」の意」「シュクピXukpi:「コーナー部の束、包み」の意」「シュクップXukup:「モットモットと呼ばれる鳥」の意」と読んでいたことが分かっています。コパンがマヤ地域の端、まさにコーナー部に位置していることを考えるとこれは面白い解読結果といえます。

 

9.コパン遺跡の「アクロポリス」とは何?

写真:現在のアクロポリス

現在のアクロポリスの写真:アクロポリス北側、11号神殿へつながる大階段
(クリックで拡大表示

アクロポリスといえば、古代ギリシャのアテネ、有名なパルテノン神殿がたっている丘に付けられた名前です。ところが、19世紀に初めてコパン遺跡を訪れた探検家たちは、古代ギリシャのようにコパン遺跡中心部の神殿群が、自然の丘の上に建っていると勘違いして「アクロポリス」と名付けました。そのため、現在でもこの場所は、慣習的にそのように呼ばれているのです。確かに、亜熱帯ジャングルの中に埋もれていたこの場所は、一見すると高さ30数メートルの自然の丘に見えたはずです。

その後の調査により、この「アクロポリス」と名付けられた場所は、王朝創始時の西暦426年頃から王朝が崩壊する西暦820年頃まで、約400年間にわたって増改築された、すべてが人工の建築複合であることが明らかになっています。

図面:建造物10L-16(16号神殿)の断面図

アクロポリス内に位置する建造物10L-16(16号神殿)の断面図。
様々な建造物が重なり合っている様子がわかる。
(ホンジュラス国立人類学歴史学研究所提供図面に基づく)

 

10.10J-45とは、いったい何?

これは、コパンで採用されている登録法に基づいて古代コパンの建造物址に与えられた登録番号で、特定の建造物に言及するときのある種の呼び名となっているものです。

コパン谷では、1978年から79年にかけて谷間内の遺跡分布地図が作製されました。その際、谷間内の測量対象区域を500メートル四方のグリッド(方眼)に区分した上で、縦軸につけた数字と横軸につけたアルファベットとの組み合わせによって各グリッドを表示しました。そして、各グリッド内で確認された建造物址に、それぞれ1から順番に番号をつけて建造物番号としました。したがって、例えば、建造物10J-45とは、グリッド10J内の建造物45番ということです。

コパン遺跡の各神殿もこの表示法で番号が付けられています。例えば、19世紀の考古学者によって命名され、通称「神殿16」と呼ばれているピラミッド状の建造物は、グリッド10L内にあるということで、建造物10L-16と名付けられているのです。

 

11.ピラミッド一つ作るのに何日かかった?

ピラミッドのような形をした建造物の建築には、4つの作業段階があります。

  1. 石切り場で石を切り出したり、川から砂や川原石を採取する、必要な粘土を掘って採取するなど建築資材の調達作業、
  2. 上記の資材をピラミッド状建造物の建築現場へ人力だけで運ぶ運搬作業、
  3. 運ばれた石材を整形したり、石造彫刻を別に制作したり、粘土や砂をこねて漆喰を作るなどの製作作業、
  4. それらを敷いたり、積み重ねたり、ファサード(建物正面)を飾ったり、仕上げをしたりという建設作業、

の4段階です。

コパンでは、「実験考古学」といって現在の石工に同じ材質の石を加工してもらったり、人夫の人たちに建築用の土を発掘してもらったりした結果をまとめた大変興味深い研究があります。ペンシルバニア州立大学の考古学者たちの研究です。それによれば、これらの作業段階をすべて含めて、26号神殿程度のもの(高さ25メートル、一辺50メートル程度)ならば、のべ124,000人/日くらいで建築できるという積算が出されています。つまり1日約200人が動員されて、1年に100日間労働に従事したとすると、通算しても6年強の期間でできるということになる訳です。

古代マヤ社会では、労働は一種の「税」です。古代日本の税制である律令制(租・庸・調)の「庸」にあたるわけです。しかし、農民たちは、雨期には農作業をしなければなりませんから、1年に100日程度の乾期の間なら、交代で支配者のための労働に従事できただろうと考えられます。もちろん、谷間のあちこちで同時に、いろいろな貴族や王族の建物が建設・更新されていたでしょうから、人口の大部分を占める農民の働き手は結構いろいろなところに借り出されていたはずです。

さらに大切なのは、マヤの建造物は見かけは大きいが、一気に何もないところから建てられたものではなくて、古い時代の建物を何度も増改築しながらそれらを埋めて、その上に作られているということに注目することです。つまり、26号神殿という大きなピラミッド状建造物の見かけのボリュームよりも、この神殿の最終バージョンを作るのに費やした実際の建設ボリュームは、ずっと少なかったということです。この点を考慮すれば、124,000人/日という数字よりもずっと小さい数字で建設できた可能性もあるのです。

 

12.古代の人口はどうやって計算する?

古代マヤ社会のように、文字記録から都市の人口情報が得られない古代社会の人口算定には、いくつかの方法がありますが、マヤ考古学においてもっとも頻繁に使用されているのは、建造物址から直接計算する方法です。

コパンでは以下のようにして最盛期の人口算定が行われています。

  1. 地表面から確認できる建造物の址をすべて数えます。
  2. これまでの調査結果を援用し、そのうちの約95%が最盛期の同時代居住址と推定します。
  3. グァテマラのティカル遺跡の発掘から得られたデータで、「確認建造物の約86%が住居址である」という調査結果を援用します。
  4. 民族誌的な研究によって、マヤ人たちは一住居に平均して約5.6人の家族が住んでいる、という調査結果を援用します。

ここまでで推定総人口は、(建造物址の数)×95%×86%×5.6人で得られます。この数値をコパン谷のこれまでの調査結果で得られた知見で矯正します。その知見とは、地表面から見えない建造物址を考慮する(少なくとも実在数の20%以上が地表面から確認できない)。コパン谷における全建造物址に対する住居址の割合を考慮する(ティカルの事例よりも住居址が多い)などです。

こうして得られる全盛期の人口は、約3万人ほどではなかったか、と推定されるのです。