南東地域から見た古典期マヤ文明の「崩壊」
−コパン王都からの視点−

2010年8月21日に行われたアンデス文明研究会の公開講座の講義要旨です。

一般公開講座 講義要旨

本講義は、マヤ文明の研究史において「古典期マヤ文明の崩壊」と呼ばれる現象とその後の時代である後古典期の前半の様相をマヤ南東地域のコパンを事例として取り扱ったものである。講義は、三部構成で行われた(目次参照)。

図:講義目次(作成:中村誠一)

目次

まず講義の第一部では、「古典期マヤ文明の崩壊」と呼ばれる現象の性格とそれを引き起こしたと考えられる原因や本質的な問題点が、学史及び最新の学説に沿って説明された。次に、マヤ研究者の中には、この現象を古典期マヤ文明の「崩壊」ととらえる立場と、現象自体をあまり重視せず、一時的なマヤ文明の「衰退」ととらえる立場があるが、筆者がどうしてこの現象を古典期マヤ文明の「崩壊」ととらえるかが説明された。筆者は、北部低地や南部高地において後古典期に継続した政治体制は古典期のそれとはまったく異なる別物と考えている。また、「衰退」論者の中にはマヤ文明は後古典期も引き続き発展したと主張する者もいるが、人類社会の「発展」を決定する指標は多様な観点から可能ではあるが、その歴史は単純な一系進化プロセスである必要はまったくなく、社会や文化の「停滞」や「後退」を伴うらせん状のものであることが論じられ、この観点から紀元前4世紀から紀元後16世紀までの文明段階に達したマヤ史全般に「成熟期」「全盛期」というものがあるとすれば、それは「古典期」と呼ばれる時代であることが主張された。

次に第二部では、古典期マヤ文明の「崩壊」とその後の状況が、南東部のコパン王国を例にとって考察された。コパンにおける「崩壊」の性格とその後の人口動態に関しては、二つの学派がここ20年来、鋭く対立している。一つの立場は、コパン谷においては、9世紀の前半に「暴力的な破壊」を伴う王朝の滅亡があり、それに伴い谷間の人口も激減し王都には900年頃までには居住民はほぼいなくなったという劇的な崩壊説である。この説を唱える学派の研究者たち(ハーバード大 / チューレイン大)は、これまでコパン谷で報告されている後古典期前期の墓や副葬品の土器群は、紀元975〜1000年頃にコパン谷へ外部からやってきた小規模で散発的な集団によってもたらされたもので、彼らが放棄されていた古典期の建物に再居住した証拠はあるものの、それから2〜3世代後には彼らも谷間からいなくなった、と主張する。

これに対して、もう一つの学派(ペンシルバニア州立大)は、黒曜石水和法による年代測定結果を用いて、コパン谷においては、王朝崩壊後も劇的な人口減少は起こらず、有力な貴族層が谷間の社会を支配し続け、特に谷間の周辺部では一般農民たちが13〜14世紀頃まで居住していたと主張する。この見解では、コパンで見られる後古典期の遺物や文化要素は、谷間の外からやってきた移民集団によってもたらされたのではなく、コパン谷に居住していたエリート層の新たなネットワークを示しているとされる。

 

この論争の鍵を握ると思われる考古資料が、最近、筆者のコパン遺跡での発掘で確認された。講義の第三部では、これらの資料の一部が紹介され、この問題に関するこれからの展望が論じられた。2003年から2009年までコパン大広場の北150メートルに位置する二つのグループ(9L-22, 9L-23)において行われて来た発掘調査においては、建造物「9L-104」最下層で7世紀初めの重要な貴族墓が発見されたが、この建物からは、後古典期前期(1000〜1200年)に増改築した部屋も確認された。この部屋の下から、後古典期前期のラスベガス多彩色土器、カン・アンスリップト土器の各口縁部(図1)を含む土器片の一群が、部屋の漆喰の床面によって完全にシールされた状態で発見されたのである。これは、後古典期にこのグループに居住していた人々が、建造物の増改築を行ったという間違いのない考古学的証拠である。同地点のすぐ東側からは、屈葬の埋葬一体も発見されたが、副葬品は伴っていなかった。この埋葬も、従来言われているような古典期の建造物への単純な掘り込み埋葬ではなく、この部屋の増改築の前に建造物中に行われたもので、上記の部屋の建設によってその壁で完全にシールされた状態で見つかった。

図1:建造物9L-104出土の後古典期の土器(図版:PROARCO)

図1:建造物9L-104出土の後古典期の土器(図版:PROARCO)

これまでの発掘において、このグループからは、凝灰岩ではない石棒の建立やその部分の階段の敷設による増改築、古典期のコパンには見られない古典期終末期〜後古典期に属すると思われる「型入れで制作された人物形象笛」(図2)やその時期の土器を副葬品として伴う埋葬、「猿やカエルの石彫」(図3)も複数、発見されていた。さらに、未だ大部分が未発掘のグループ最大の建造物「9L-105」においても、部屋の増改築が確認されている。建造物「9L-104」の事例を参考に考察すると、こういった考古資料や文化要素は、コパンにおける王朝「崩壊」後の資料である可能性が極めて高い。

図2:型入れで制作された人物形象笛(写真:PROARCO)

図2:型入れで制作された人物形象笛(写真:PROARCO)

図3:猿やカエルの石彫(図版:PROARCO)

図3:猿やカエルの石彫(図版:PROARCO)

 こういった点から、まだ最終結論にいたってはいないが、コパンでは820/822年頃に、戦争や内乱で政治体制が崩壊した後も200〜250年位は、別の派閥の貴族が残り農民とともに居住が続いたのではないかと考えられる。それと同時に、コパン谷の社会も王朝「崩壊」前後からメソアメリカ全体の流れに巻き込まれ、新支配者層は中央ホンジュラスやエル・サルバドルの非マヤ系社会と密接につながる新たなネットワークを構築していたが、最終的には安定した政治体制の確立に失敗し、やがてコパン谷も完全に放棄されたと思われる。

いずれにせよ、グループ「9L-22, 9L-23」で確認されている新たな資料は、現在、コパン谷における古典期王朝崩壊後の状況を巡ってアメリカ人研究者間で行われている上述した論争は事態を単純化しすぎており、現実のプロセスはより複雑なものであった点が示唆されている。2011年から新コパンプロジェクトも開始されるので、この問題の追及を進め、ユカタン州立大学とも協力し、ストロンチウムや酸素の同位体比分析などを通じて、この区域の居住民の出身地の解析を行う予定である。

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マヤ文明、古典期マヤ文明の崩壊、コパン、後古典期、グループ9L-22, 9L-23