〜宇宙に繋がる生命〜



















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2009/1/21 年の始めに
2009年が始まりました。これまで「コスモス」をご愛読いただき感謝しております。
 皆様のご希望もあり、今年は病名ごとにその原因を探すことに挑戦しようと思っています。むろん、それは東洋医学を通じ、「気の医療」の立場からヒモ解きますが、筆者としては「チベット医学」に守られながら、この作業を進めさせて頂きたいと思っております。
 皆様が予防法を工夫なさるのに、ご参考になれば幸いです。なお これまでの原稿はそのまま掲載を続けますので、今後とも是非ご意見をお待ちしております。
2007/4/21 価値観の形成
○会社はウソツキ
 敗戦の苦悩からやっと蘇生した私は、再び「偉大な?裏切り」を体験して、価値観の基本を形成されたようです。敗戦では「国家」が紙切れになり:今また「患者の首切り」は会社=資本家の本質を、現実のものとして見せつけました。有り体に言えば「会社〜資本家はウソツキ」で、「結核患者を救う」など言いつつドラキュラの様に長い爪で血をタラシ、患者の解雇を計画したのです。
○クビキリ反対
 名簿を出した私は「患者のクビを切らせない」ために、必死でした。資本家・クビキリ・ミンドウ(民同)・団交・など始めて聞くコトバの渦巻きの中で、毎日ドキドキしていました。何を信じるのか?誰に頼るのか?味方は誰なのか?労働組合も患者のクビを呑んだのです。
○バイブルクラス
入社以来、バイブルクラスでキエルキエゴールを読んでいたが、解雇を防ぐには「祈れば奇蹟が起きる」と云うので、奇蹟が起きなければ患者は?と突き詰め、聖書研究会を退会しました。
○結核患者を守る会
 私の部署に元気な「青共」のメンバーがいて、「守る会」を提案しました。他に無かったので、一緒に深夜までビラのガリを切り印刷し、社内にも地域にも撒いたのです。守る会は社員70%の署名を採って団体交渉を行い、そこに清瀬から手術をした患者数人を連れてきました。肺葉や肋骨を切除した青い顔の仲間たちで、胸が締め付けられたのを今でも覚えています。
○結論
《健康保険法の適用を十年延長する》という条件と解雇ではなく《希望退職》とすることで反対闘争は敗北で終わったのです。無理がたたり私も微熱が続き、左肺浸潤を宣告され、気胸療法を続け《希望退職》を強制されました。

2007/3/16 働いて給料をもらう〜V
◎結核の早期発見:早期治療
 戦争中の惨めな食糧事情と過労で、敗戦後の日本では「結核」は社会病でしたから、「結核の早期発見:早期治療」を掲げたのは企業の「美徳」にすら見えました。
◎患者の摘発?      
厚生課・健康保険係りは二人の保健婦が結核予防会の助手をし、私は患者の職場別.症状別名簿作成が主な作業でした。三十人以上が結核予防会に入院し、精密検査や肋骨や胚葉の手術を受けました。
 在宅:通勤療養者ニ十人は気胸療法と服薬治療で休憩を二時間延長され、日当たりの良い窓際で彼らは平和に休んでいました。
◎企業整備という患者の解雇
 1949年会社は企業整備の内容を発表し、それには[一つ結核患者]と有り、入院患者・在宅・通勤療養患者が解雇の対象者でした。患者名簿は首切りに使われ、悔しく腹立たしく、患者に申し訳なく合わせる顔がありませんでした。
 会社側とは資本家の集まりで、患者の解雇など平気なのだと、やっと解ったのです。
2007/2/16 働いて給料をもらう〜U
◎ 配置がえについて
 「検査部品質管理課」は戦後アメリカから導入した検査法で、不良製品の管理のために、不良品発生の手作業の過程をつぶさに観察し、そこにたずさわる労働者を管理する任務であった。むろん当時の私は始めて就職し勤務に夢中で、その内容は思いつきもしなかった。
○無意識ながらの抵抗
 現場の労働者は個人責任から逃れ「不明」と書いた伝票を不良五極管の足に結ぶ。担当の私は「不明」を解明しようと作業工程をあちこち尋ねても判らず、伝票どおり不明の欄に入れる。こうした不良統計は「品質管理業務」の否定で、(無意識ながら)とにかく現場の労働者に同調したことが、一人だけ移動の原因だったと、数年後に理解した。 
 二年遅れて家族全員が帰国し、私の廉い給料が六人家族で唯一の固定収入で、私は親孝行していた。
○厚生課健康保険係り
 戦争中から戦後の食生活は貧しく、国内に結核患者が増え社会病とされていた。会社では「結核の早期発見:早期治療」が労資の協調シローガンで、壁に横幕が張ってあった。結核予防会から定期的に医療チームを呼んで社員の検診がなされ、社員の3分の2が養護を必要とする「開放性」の患者で、入院:在宅休養:出勤治療休養に分類された。
 休養組は昼の休憩を2時間延長され、休憩室で睡眠を取らされるが、こうした検診の結果のカルテを整理して名簿を作り、休養組の昼寝を監視するのが私の新たな任務となった。
2007/1/16 働いて給料をもらう
◎配置転換される
 会社では品質管理課に配属され、作業は製品の不良品統計の日報作成でした。真空管の五極管の不良品統計を工程別に表にする作業で、試験課で不良とした製品の伝票から、その日の内に不良統計を出す作業でした。当時はまだ電卓など無くて、眼と手の作業でゲージ計算し、表に記入するのですが、数学がニガテな私にはシンドイ作業で、残業しなければ担当が終わらなかったのです。
 そこでは三極管の統計も先輩の女性が担当し、私と競争させられているのが直ぐに解りました。製造は殆どが手作業ですから、どこの工程で出たか、誰が作ったかと云うことが、一目で判りその労働者の責任が追求されることを知り、やがて彼らは「不良品の内容も工程もあいまいにする」方針を持っているのは当然だと思い、不良品の内容や工程を「不明」として統計に入れました。
 事件は事務室で起きました。給料日に係長が名前を呼びながら給料袋を投げて寄こしたのです。これは受け取れない。と4人の女性が怒って皆で部長室に直訴し、改めて部長から給料を頂戴したのです。けれど数日して私だけが配置を移されました。
注:五極管は足が五本ある真空管でラジオで使われていた。
2006/12/17 日本に帰国し、労働者になる
<敵・味方の国籍の違い> 
 学徒出陣から戻った弟は旅順工大に席があり、早く日本の大学に転校したいのと、私を日本に早く帰すために、姉弟で「コロトウ」から引き上げ船に乗せられた。
 私とS氏との別離を強制したのは「敵味方の国籍の違いから来る立場」で、二人とも受け入れざるを得なかった。「和平会議のあとで手紙を送る」と約束する以外に手立ては無かった。敵国日本人の娘と結婚を希望などすれば、日本人の娘は逮捕され、彼には本国送還と軍法会議が待っている状況だった。
 私はひたすら悲しくて、収容所のとがったバラセンに掴まりながら、真っ赤な夕日を見て全身で泣き続けた。バラセンのフェンスを越えて飛んでS氏のもとに戻りたかったが・・・。
 日本の港について直ぐに「発疹チフス」予防のためにシラミを殺す目的で、襟首の前後からBHCを噴霧器でガーツと入れられた不快さは、今でも忘れられない。幸運なことに麻布の祖父母の家も、世田谷の父母の家も焼け残り、封鎖されていた貯金から二人分をいただき、取り敢えず麻布に同居した。
<電車のビラで就職>
 敗戦まで国民学校で「ウソを教えた教師」のキツイ後悔は、教職には二度と就かない決意を持たせ、東横線の求人広告のビラにしがみつき、学歴を隠して日本電気に入社した。 
2006/12/2 敗戦でも変われない「父の帝国主義」
<恐ろしい親ごころ>
 敗戦から半年ほど後だろうか「奉天」で聞かされた父の言葉は、戦争中そのままの帝国主義だった。「この地区から子供と老人20人が先に帰国する。赤十字の特別列車が釜山まで乗せるから、君も彼らの世話役として推薦したから、これで早く帰国して大日本帝国民のタネを多く産み残せるよね。」「ナンデ。私が危ない旅の世話役になるの?死んでも良いの?私は子産みマシンなの?」と心の中では叫び「如何して良いか解らない」と返事をしなかった。
<「親」でなくなった父>
  戦後の混乱期に日本人集団を乗せた列車が、赤十字とはいえ朝鮮半島を無事に走り釜山まで行くなどとても信じられないのに、父は確信し「強制はしないよ」と悲しげではあった。けれど私のほうが父より数倍も悲しかった。私には親はいないと感じていた。
 <マックラヤミに生きる> 
 今思えば敗戦で国家を失い、それなのに 父の「心」は私とはほど遠くあいも変わらず帝国主義だと云うことが、私をマックラヤミに突き落としたのか。数日後その赤十字列車はほどなく襲撃され、全員の生死が不明だと父から聞くことになった。(次回・帰国・就職)
 
2006/11/16 「敗戦」の受けとめ方:思想の岐路
<人として蘇生> 
 国民党の技術将校S氏から「日本人は『満洲』をドロボウした」と説明され「違う!違う」と心中で反論しながらも、口には出せなかった。それは極端に違った日本人と「満洲人」の日常生活を「不思議に思わなかった」日々を嫌でも思い出していたからだ。なぜ優越感に浸って当然だったか?当時の私には解らなかった。
<視野の180度の 転換>
 新たなマナコを得たように「現実」という貧しい辛い日々の原因が、その意味が目前に明らかになってきた。「満洲」をドロボウしに来た日本人の日常から見えた「視野の転換」であった。こうしてS氏によって私は目からウロコが落ちて『ホンモノとニセモノ』を見分けるマナコを与えられた。「コーデリンもS氏も優しい「心」の持ち主だった。私は「人」として蘇生し、「心の宝」を持ち第二の人生を開始したのだ。
<負けても「侵略者」>
 懲用から戻された父は発疹チフスを患い、腹巻の網目ゼンブがシラミだらけで母が焼いた。そんなでも「勝った満人」の主食は立ち食いのチエンピン「高粱の粉のおやき」で、日本人の我が家は「米の混ぜご飯」を食べていた。不思議なことにも負けた日本人の方が贅沢で、負けたのに「侵略者」だった。
<「戦争に組み込まれただけ」という現実逃避と忘却>
 「満洲」にいた大日本帝国 国民の大部分が「戦争に組み込まれた」と自分を慰め割り切っていた。彼らは日本人として「満洲人」を軽蔑し、その差別に痛む人々を返り見なかった。「国が負けたから」と、差別に加担したことを忘れ、淡々として帰国を待ち望み、やがて再び「戦争に組み込まれる」自分を繰り返すのだろうか。
 
2006/10/29 国民党の駐留で 生まれ変わる私
 ソレン兵の強盗から逃げた平屋は庭付きの5室で、数軒の課長住宅だった。そこの応接間が駐留した国民党技術将校の宿舎に使われた。一軒に一人配置されフトンだけが持ち込まれた。なぜか彼らはアメリカの軍服のようないでたちで、我が家のS氏は背の高いかっこいい青年だった。部屋の掃除と靴磨きが私の仕事になり、かたことの中国語と英語で会話するのがすごく嬉しかった。
<大公報の勉強>
惨めな敗戦国の少女にとってS氏の語る全てが驚嘆そのものだった。やがて中国語の勉強が始まりS氏はテキストにと私に「大公報」と中華民国政府の新聞を与えた。水を得た魚のように私は「大公報」を舐めるように読んだ。「四声」を正確にと『偽満皇后愁鴻下落不明・・』を何回も楽しく練習したのを昨日の事の様に覚えている。
<日本人は『満洲』を盗んだ>
 日本人はコジキまで『満州』に乗り込んできた。それは日本が褒美の金をコジキに渡し『満洲』に入れたのだ。日本人は勝手に『満洲』に鉄道をしいて占領した。日本人は無煙炭を勝手に使い『満洲人』は燃えカスを使った。日本人は『満洲』の麦で味の素を作り、内地に運んだ。日本人は『満洲』をゼンブ盗んだんだ。  続く
2006/10/3 放り出された侵略者
<逃げた「菊の紋章」>
 「満州国・新京」の関東軍正門に輝く菊の紋章はいつの間にか消え、銀行幹部の家族や家財も、敗戦の数ヶ月前には安全に内地(日本)に送られていた。
<大日本帝国を信じて>
 普通の日本国民の一人として、愚かな両親は東京で短大に通う娘を彼らの住む「奉天」に呼び寄せた。東京空襲の直前のことだ。すぐに国民学校の教員に雇われ「戦争遂行のイチヨク」を担う。教員たちは運動場で敵戦車のつもりの大八車に、地雷のつもりのボールを抱え走りこむ訓練を毎日マジメに練習した。
<銀行と大邸宅が狙われた>
 天皇の玉音放送は、意味も判らず日本が負けた実感も出なかった。最後の給料を千三百円ほど貰い、それが我が家の全財産になった。というのは「玉音」の直後に駆けつけたが銀行はよろい戸を閉ざし、わが家は無一文だった。数日後、興業銀行社宅が襲撃され、我が家もソ連兵の強盗にやられた。
<大日本帝国はカミキレ>
 幼い弟妹とほうけた母を抱え、明日からの暮らしに悩みつつ、今日か明日に「満人」に襲撃されるかと怯え、男装し髪を切り顔にススをつけ、家に隠れていた。「大日本帝国」っていうのが、実は紙切れの値打ちも無いと痛感したものだ。父はソ連軍に徴用され、弟は学徒出陣で生死も判らなかった。
2006/9/15 野辺の小さなサレコウベ
 戦争中の「奉天」の治安の良さを今思えば不思議なのだが、日本人の知らない「日本軍の無言の威圧」が、現地人を脅かしていたのだろうか?無邪気な女学生は知る由もなかった。
 女学校に通学するバスは一般の満州人で満員で、汚れて光る服の間に揉まれるよりは、4kの荒野を数人で歩く方が面白かった。それでも必ず纏まって通学させられた理由にすら無頓着な少女たちだった。
 硬く凍えた野原は、春には野菜でも植えてあったのか、畝が続く。所々に丘の様に土が盛り上がり、コダマスイカほどの「丸いもの」が時たまアチコチに転がっていた。デコボコでゴロンと重くドロマミレでなんとも解らない代物だった。それが何だったのかも、後に「コーデリン」に教わることになる。
 「コーデリン」は我が家の満洲人ボイラーマンであった。現地の日本人は洋館に住み、スチーム暖房で、石炭を炊き零下17度前後の冬をしのいでいた。彼は60歳過ぎのおじさんでボイラー室に住まわせ、冬の24時間を働かせていた。彼は正直者で良く働いた。暖かな春になっても其処に寝起きし、裏の空き地にピーマンや玉ねぎ、大豆、ジャガイモなどを植えて、これさえ有れば金は要らないと我が家にもくれた。
 彼の綿服は汚れでエナメルの様に光っていた。口の両端にツバを溜めて、私に解るような満洲語で笑いながら沢山のことを教えてくれた。
 どうして家に帰らないの?奥さんがいないの?と聞くと「金がない。家も無い。家内もいない。ここは暖かいし食べ物も貰える。家も家内も要らない。メイファーズ」と云う。何でも聞くうちに、野原の丘と「丸いもの」の話になった。
 「あの丘は土饅頭で死んだ子供を埋めてある。早く死ぬ子は親不孝だから、墓は深く掘らずに埋める。土も少しだけ盛り上げる。野犬がそれを掘り出して食いちぎり、ドロマミレの頭だけが転がっているのだ」と。可愛そうだというと又「メイファーズ」と云う。さすがに其れを聞いてからは野原を斜めには行かず、直角にきちんと道路を歩いた。蹴った足の重さが思い出されて、暫くは気分が悪かった。
 敗戦後、いつかコーデリンは消えた。「会社の労務課からもう給料が出ないから」と母が云ったが、その後しばらくしてから、時々お砂糖や小麦粉、野菜を土産に来てくれて母を喜ばせた。
2006/8/30 いのち拾い そのT
 夜中に突然《ダイナーワタシノコイビイイイト》とレコードが鳴り出す。囚人兵の襲撃の合図なのだ。
母と妹と私は飛び起きて「フトンは押入れに。早く」と急かされて窓から屋根に逃げ煙突の影に隠れた。
「ソ連兵が強盗にきたら酒や缶詰でもてなす。女は隠れる。逆らわない。探されるから逃げるときは押入れにフトンを仕舞う」など母の知恵だった。
「奉天」には敗戦後にソ連軍が侵攻した時期があった。その中の囚人兵が強盗に入るとの噂でビクビクだった。当時は警察も自警団も何もなく、工業大学の学生二人を用心棒に置き弟と階下に寝ていた。それと軍隊の酒・缶詰・レコードを用意するのが最大の防衛策だった。
 屋根上の三人は怖いのと寒いのでガタガタ震えていた。下ではレコードが鳴り続け飲食いしている様子だったが、何か大声とジャラジャラする音が庭に回り、囚人兵は弟を連れて鳥小屋に行った。スコップデ掘る音、何か喚き声がした途端、ババババン・バババンと自動小銃がなり逃げる足音、それを追うジャラジャラの音。屋根上には音と恐怖しか伝わらなかった。「独身寮から誰かを呼んでくるから」と母は弟を心配して、浴衣のまま屋根から松の気に飛び移りハダシで駆け出した。
私は妹と煙突の陰で落ちない様にじっとしながら<アヒサン>を握り締めていた。「ソ連兵に辱められる前にこれを飲みなさい」と渡されていたが、飲んで何分で死ねるのか迂闊にも聞いていなかったのを、煙突の陰で思い出した。「こんなもの妹に飲ませるわけには行かない」と寒い中を抱き合いながら屋根上で待ていた。
ジャラジャラの音は段々に遠ざかり、人声もなく「助かった」ことを知る。あれは囚人兵が靴に着けられた鎖のおとだった。彼は万年筆のケースの数だけ時計を要求し、弟は鳥小屋へ案内して掘り出すが、貴金属が無くて怒り、自動小銃を向けたという。幸い酔っていて弟には当たらなかった。母はその後数ヶ月、物が云えない日々が続いた。屋根と松の木はとても飛び移れる距離ではなかった。
月が光っていて余りにも静かな夜だった。六十年も前の「いのち拾い」である。
2006/8/16 血染めの日の丸
敗戦の数日前に、私宛に送られてきた日の丸は、血糊の焦げ茶がごわついて全体を覆い、赤いマルも白地も僅かに残りはして、血糊が戦死者を伴うような不気味さだった。譬えようもない異様な匂いが漂って、逃げるように部屋を出たのを覚えている。
 私宛にと遺書が有ったという。なぜ私にと腹立たしく迷惑でもあった。送り主は部隊の上官で、「北支戦線」からよくもはるばる届いたものと父母が話していた。当時は男性が召集や戦死で減る中で、母は勝手に私の嫁入り先を知人に頼んでいたらしい。そういえば数年前に近衛騎兵隊の将校とか云う青年が我が家に来て、客間にお茶を出し挨拶した記憶はあった。
「あのときはお見合いに見えたのよ。家柄が良いからお話を勧めていたんだけれど、出征じゃと思って貴女には云わなかったの」汚れた日の丸を前にした、母の説明だった。
 こちらは名も知らず、話もせず「近衛の軍服が綺麗だ」ぐらいの印象に過ぎず、以来私は「日の丸」が大嫌いになった。なぜかトラウマである。それは無碍に人を殺す「戦争」と、勝手な母と、勝手な男性に対して鳥肌立つほどのおぞましさだった。母はその旗を包み直して先方の両親にお送りしたそうだ。
 友人には17歳で女学校卒業前に結婚し、実家から学校に通う人がいた。聞けば右目が義眼で出征の心配も無く、家柄も良いと云う、これが最高の縁談である時代であった。
2006/8/15 千人針と初恋
千人針の布は、タバコ屋にも売っていた。白の木綿を半幅に折り、長さは手ぬぐいの倍以上で、中ほどあたりに碁盤の目のように千個の点が印刷した物だ。赤い二重の木綿糸で一人が一針縫ってコブを作り、士気を鼓舞するという。
 五銭玉は死線を越え、十銭玉は苦戦を越えると縁起を担ぎ、街角に立って千人にお願いするのは容易ではなく、穴の開いた五銭や十銭を恵んで頂くと四個分が埋まって嬉しかった。お金が着いたのは弾除けになるからと、とても喜ばれた。出征兵士はそれを腹に巻いて、戦地におもむいた。
 寅歳の女には特権?があった。自分の歳だけ鼓舞する〜つまり当時、寅歳の18歳か30歳の女性は歳の数だけコブを縫う。寅年の女性に当たれば仕上げが近い。滅多に30歳には当たらないが、私のクラスには18歳が多く忙しかった。
私も従兄弟が学徒出陣で入隊し、千人針に立てることが嬉しかった。お願いしますと頭を下げながら、従兄弟は私のホノカナ初恋の人になってしまっていた。彼は軍人の親戚の縁故で外地には行かなかったらしく無事に帰還したが私の初恋は実らなかった。
運がよほど良ければ、戦死者の血で染まった千人針が、故郷に届く事も有ったらしい。